1480年

1480年(1480 ねん)は、西暦ユリウス暦)による、閏年

千年紀: 2千年紀
世紀: 14世紀 - 15世紀 - 16世紀
十年紀: 1460年代 1470年代 1480年代 1490年代 1500年代
: 1477年 1478年 1479年 1480年 1481年 1482年 1483年

他の紀年法

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できごと

誕生

死去

脚注

注釈

出典

関連項目

1416年

1416年(1416 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。

1478年

1478年(1478 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。

1480年代

1480年代(せんよんひゃくはちじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1480年から1489年までの10年間を指す十年紀。

1521年

1521年(1521 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。

1538年

1538年(1538 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。

820年

820年(820 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。

アダムスブリッジ

アダムスブリッジ (Adam’s Bridge) は、インドとスリランカの間のポーク海峡にある、石灰岩でできた砂州と浅瀬の連なりである。ラーマズ・ブリッジ (Rama’s Bridge) とも。

長さ48kmで、北のポーク海峡と南のマンナール湾を隔てる。103のサンゴ礁と7つの小島からなり、それらが橋脚のように点在するが、地質学的成因は未解明である。

水深は1~10mと浅く、船舶の航行を困難にしている。記録によると1480年のサイクロンの被害を受ける前は更に浅く、歩いて渡ることが出来たという。

バヤン・モンケ・ボルフ晋王

バヤン・モンケ・ボルフ晋王(モンゴル語:Баянмөнх жононгийн、1464年 - 1487年)は、モンゴルの第33代(北元としては第19代)大ハーン(在位:1480年 - 1487年)。アクバルジ晋王の子ハルグチュク太子の子。ダヤン・ハーンの父。『明史』韃靼伝では孛羅忽、伯顔猛哥王と表記される。バヤン・ムンケ(Bayan möngke)とも表記される。

ヤン・ドゥウゴシュ

ヤン・ドゥウゴシュ(Jan Długosz、ラテン語:ヨハネス・ロンギヌス。1415年12月1日、スタラ・ブジェジュニツァ - 1480年5月19日、クラクフ)は、ポーランドの司祭、年代記作者、外交官、軍人、またクラクフ司教ズビグニェフ・オレシニツキ枢機卿の秘書を務めた。

ヤン・ドゥウゴシュは965年から彼の没年である1480年までの南東ヨーロッパおよび西ヨーロッパで起きた諸事蹟について執筆した『有名なポーランド王国に関する年代記(Annales seu cronici incliti regni Poloniae)』によって最もよく知られている。この作品は1701年から1703年の間に初めて印刷された。同書の中でドゥウゴシュは著者である自分をどのように位置付けるか迷ったらしく、自分のことは三人称で呼んでいる。

ドゥウゴシュは同市にあるクラクフ大学(現在のヤギェウォ大学)で教育を受け、1434年、クロブクの主席司祭だった叔父によってクロブクの聖マルチン教会の律修司祭に任じられた。クロブクはシロンスクのオポーレ公国に属していた都市であり、つい最近ポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォによって征服されたばかりだった。ドゥウゴシュは1452年までこの地に留まっており、同市に修道院を創設している。

1450年、ドゥウゴシュは王母ゾフィア・ホルシャンスカと国王カジミェシュ4世から、ハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュとボヘミア貴族ヤン・ジシュカとの紛争の調停を頼まれた。6日間の交渉の後、ドゥウゴシュは両者を講和させることに成功している。1452年、ドゥウゴシュはクラクフの律修司祭となった。1455年、クラクフでは大火が発生して都市の大半と城壁などを焼き、ドゥウゴシュの家にも燃え広がった。彼はその後もカジミェシュ4世の命令で教皇庁や神聖ローマ皇帝の宮廷へと外交交渉に赴いており、13年戦争(1454年 - 1466年)では国王とドイツ騎士団との和平交渉に加わった。

1461年、ドゥウゴシュを含むポーランド政府代表団はボヘミア王イジー・ス・ポジェブラトの密使とシロンスクのビトム(ボイテン)で会合を開いた。6日間の協議の末、両国は同盟を結ぶことを決めた。13年戦争中の1466年、ドゥウゴシュはシロンスクのヴロツワフ(ブレスラウ)に特使として派遣され、シロンスクの諸公国がドイツ騎士団に肩入れしないよう説得を試みた。ドュウゴシュはこの任務に成功し、翌1467年には国王の次男カジミェシュ王子の家庭教師となっている。

ドゥウゴシュはプラハ大司教に就任するよう要請されたが断り、死の直前にルヴフ大司教に就任した。ドゥウゴシュはマクデブルクのヴィガントの中高ドイツ語の年代記「Chronica nova Prutenica」を大雑把な形でラテン語に仮翻訳している。仮翻訳であるためドイツ語圏の固有名詞について多くの間違い、特に人名、地名などで混同がみられる。特に、ポーランドとドイツ騎士団の決戦が行われた場所のドイツ語名は「緑の野原」を意味する「グリュンフェルデ」であったが、ドゥウゴシュはこれを間違えて「緑の森」を意味する「グルンヴァルト」としてしまい、後にはこの「グルンヴァルト」の名前のほうが定着してしまった。

ルネ・ダンジュー

ルネ・ダンジュー(René d'Anjou, 1409年1月16日 - 1480年7月10日)は、中世フランスの王族。王家ヴァロワ家の分家であるヴァロワ=アンジュー家出身で、アンジュー公ルイ2世と、アラゴン王フアン1世の娘ヨランド・ダラゴンの次男。兄にアンジュー公ルイ3世、弟にメーヌ伯シャルルがいる。

ギーズ伯(1417年 - 1425年)、バル公(1431年 - 1480年、実際は1420年から)、ロレーヌ公(1431年 - 1453年)、ナポリ王(1435年 - 1442年)、アンジュー公(1434年 - 1480年)、プロヴァンス伯・フォルカルキエ伯(1434年 - 1480年)、名目上のエルサレム王(1435年 - 1480年)、名目上のアラゴン王およびバルセロナ伯(1466年 - 1472年)などの位に就いた。

ナポリ王としてイタリア語名で呼ぶとレナート1世(Renato I)であるが、イタリアよりフランスと縁が深いのでフランス語名で呼ばれることが多い。このほか、ルネ1世(René I)、善良王ルネ(Le bon roi René)、オック語名でレニエ(Rainièr)などと呼ばれることがある。

ヴュルテンベルク君主一覧

ヴュルテンベルク君主一覧では、1918年まで続いた伯から王までのドイツ・ヴュルテンベルクの君主を列挙する。

一条教房

一条 教房(いちじょう のりふさ)は、室町時代後期から戦国時代の公卿(関白)で、土佐一条氏の祖。一条兼良の長男。

二条政嗣

二条 政嗣(にじょう まさつぐ)は、室町時代の公卿。関白・二条持通の長男。正室は従三位兼子(権中納言広橋兼郷の猶子)。従一位。如法寿院関白と号する。

南宮市

南宮市(なんきゅう-し)は中華人民共和国河北省邢台市に位置する県級市。市人民政府所在地は鳳崗街道。

和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。

小笠原家長

小笠原 家長(おがさわら いえなが)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏分家・松尾小笠原家当主。松尾城主。父は信濃守護小笠原光康。子に小笠原定基(さだもと)。

庚子

庚子(かのえね、こうし)は、干支の一つ。

干支の組み合わせの37番目で、前は己亥、次は辛丑である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の子は陽の水で、相生(金生水)である。

成化

成化(せいか)は中国、明代の元号(1465年 - 1487年)。第9代皇帝憲宗の在世に使われた。このため憲宗は成化帝と呼ばれる。

斎藤妙椿

斎藤 妙椿(さいとう みょうちん)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・僧。斎藤宗円の子または弟。甥・斎藤利藤の後見役を務めた。妻は伊勢北畠氏の出身で一女をもうけている。養女に甘露寺元長の娘(織田敏広室)。妙椿は法名(実名は不明)で、善恵寺に持是院(じぜいん)という子院を構えたため、持是院妙椿と呼ばれた。斎藤氏の惣領家に対し、妙椿の家系を持是院家という。

従来、美濃守護代とされてきたが実際には就任していない(後述)。

15世紀の十年紀と各年

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