骨壺墓地文化

骨壺墓地文化英語Urnfield culture)は後期青銅器時代紀元前1300年ごろから紀元前700年ごろ)の、温帯ヨーロッパの一帯における主要文化。

遺体を火葬し、遺灰を骨壺に収め、天板や特別に意匠を施された蓋で骨壺を閉じ、武器装飾品と一緒に墓所に埋葬する習慣がある。「骨壺墓地文化」という名称は、こういった墓地の形態に由来する。

断崖の上、湖畔、などといった場所に、防御措置の施された集落を形成する。カミソリナイフ、容器などを青銅で作る。

この文化は複数の地方文化に分かれている。そのうち最も重要なのはルサチア・グループ(ないしルサチア文化と呼ばれる文化集団)で、ポーランドドイツ東部、チェコスロバキアウクライナ西部を占めている。ルサチア・グループは、プロト・スラヴ人の文化のひとつとみなされる トシュチニェツ文化の後継文化である[1]

Urna cineraria biconica da chiusi IX.VII sec. ac. 01
骨壺墓地文化に特有の骨壺

インド・ヨーロッパ語族の中央ヨーロッパからヨーロッパ辺縁部へ向かっての拡大移動の多くの場合が、ヨーロッパの広い範囲で骨壺墓地文化の墓地形態が広まっていったことにより起こったと解釈されている[2]。たとえば骨壺墓地文化は西方ではのちにハルシュタット文化ラ・テーヌ文化が発生・拡大する地域に広まっているが、これはプロト・ケルト人[3]に相当するであろうと推定される。特にイベリア半島におけるケルト人の出現に関してはこの見解は重要である。というのも、ハルシュタット文化やラ・テーヌ文化はイベリア半島には到達しなかったいっぽう、当地にはその前の時代の骨壺墓地文化との接触の痕跡は存在するため。ただし、当地の骨壺墓地文化の遺跡がどれも必ずケルト人のものであるとは限らない[4]イタリアに発展したヴィラノヴァ文化(Villanovan culture)の発展やその後の後期青銅器時代の文化的発展も骨壺墓地文化の人々の北方からの移住によるものか、あるいは単にこの文化の南方への普及によるものであることが考えられ、ここの言語はケルト語派あるいはイタリック語派の言語(ないしウェネティ語[5]であろうとされている。中央ヨーロッパ東部では、イリュリア人との関係が考えられている。ポーランドがスラヴ人の主要な源郷のひとつであったろうと推測する研究者たちは、ルサチア文化の担い手はプロト・スラヴ人諸集団のうちのこの地における地方集団だったのではないかと考えている[1][6]

Cultures, 1200 BC
骨壺墓地文化の広がりは赤・オレンジ・ブルーグレー・ピンク・茶・ブルー:
赤は中部骨壺墓地文化
オレンジは北部骨壺墓地文化
ブルーグレーはクノヴィズ文化
ピンクはルサチア文化(ラウジッツ文化)
茶はドナウ地方の諸文化
ブルーはテッラマーレ文化
黄緑と黄色は骨壺墓地文化と交流はあったものの、これには属さない文化群:
黄緑は西欧青銅器時代の諸文化(注:単一の文化圏ではない)
黄色は北欧青銅器時代の諸文化(注:これも単一の文化圏ではない)

脚注

  1. ^ a b トシュチニェツ文化の記事を参照。ドイツが主導的立場にあった過去のヨーロッパの考古学界では、青銅器時代から鉄器時代への移行期の地方文化であるルサチア文化ゲルマン民族固有の文化であるという排他的見解が定説であった。ここにおいては、ゲルマン民族がこの時代にすでに成立していたという仮定が定着していた。これは、もともと骨壺墓地文化が墳墓文化の後継であることが主な理由であった。いっぽう、ポーランドの考古学界は、文化集団と言語集団はかならずしも同一でないという考えから、ルサチア文化はプロト・スラヴ人のうち西方由来の骨壺墓地文化の要素を広く受け入れた西部集団の文化だったのではないかという意見を提起していた。そして、のちには、プロト・スラヴ語(Proto-Slavic language)の文化であると推定される、ルサチア文化の先駆文化である青銅器時代文化のトシュチニェツ文化が発見される。プロト・スラヴ人は、のちにスラヴ語派を形成する要素となった諸文化の担い手で、現代にスラヴ人と呼ばれる諸民族の言語的・文化的・遺伝的先祖ではあるが、この時代にすでにスラヴ語派という言語集団をはっきりと形成していたとは限らない。したがって、ルサチア文化の言語はプロト・スラヴ語であると同時にプレ・ゲルマン語(Pre-Germanic language)の一部でもあった。ポーランドの考古学界の推測はこの見解に基づいていて、ルサチア文化は単にそういったプロト・スラヴ人諸文化のうちのひとつであっただろうというものである。実際のところ、ゲルマン語派の成立は骨壺墓地文化の後の時代の鉄器時代文化であるヤストルフ文化において、もと北部骨壺墓地文化であった地域(右上図参照)で紀元前5世紀という比較的新しい時代に起こったと推定されている。ルサチア文化の担い手の一部はヴェネト人と呼ばれる集団として、ポーランドから南ヨーロッパ西ヨーロッパへ向かって移動していったと推定されている。また、この地に残った人々のルサチア文化と、その東方の、青銅器時代から鉄器時代へ早期に移行した文化で、北方の森林農耕文化と南方の草原遊牧文化の融合であるチェルノレス文化から西進してきた人々の文化(あるいはさらに、可能性としてはチェルノレス文化の北方の、森林狩猟文化であるミログラード文化も)が融合し、同じこの地に鉄器時代文化のポメラニア文化を発展していったことが、のちの調査で判明している。さらに、ポメラニア文化は、当時はまだ青銅器時代であったスウェーデン東部の青銅器文化との間での交易を通じてスウェーデン東部一帯を鉄器時代へと発展させる一方、地元ポーランドでは、西方のヤストルフ文化の影響を強く受けていた北部はゲルマン系の文化的色彩の強いオクシヴィエ文化へ、残りの地域は東方のザルビンツィ文化と酷似しスラヴ系の文化的色彩が強いプシェヴォルスク文化へと発展している。ポーランドでは現在でもこういった見解がもっとも妥当なものとして考えられている。が、特にドイツの考古学界からは、ポーランドの考古学界の見解はスラヴ帝国主義的であるとしてことごとく批判されていた。現在のドイツでも、ルサチア文化と、その東隣にあったスラヴ語派発展段階の中核文化との関係をまったく否定する人々が多数いる。
  2. ^ 球状アンフォラ文化縄目文土器文化鐘状ビーカー文化墳墓文化の記事を参照。
  3. ^ のちにケルト人を形成することになる諸集団。
  4. ^ 文化と言語は一致しない。とくに、ひとつの文化集団のなかに複数の言語が存在する事例はよく見られる。
  5. ^ ウェネティ語イタリック語派のもととなった可能性が高いと言われている。
  6. ^ この地のプロト・スラヴ人集団のうち他へ移住した諸集団がヴェネト人として一般に認識されたという可能性

参考文献

J. P. Mallory and D. Q. Adams, Encyclopedia of Indo-European Culture, Fitzroy Dearborn Publishers, London and Chicago, 1997.

関連項目

おっぱい形の山

おっぱい形の山(おっぱいがたのやま、英: breast-shaped hill)とは、人間の乳房の形をした山のことである。

このような山のいくつかには、乳房ないしは乳首を表す語である "Pap" が名前に付けられている。このような地形の擬人化は世界の様々な場所で見られ、ある文化ではこのような山は、例えばキリスト教伝来以前のアイルランドにおいて重要な女神であったアヌにちなんだアヌの両乳房などの、地母神の属性に帰し崇拝されていた。

アルツェナウ

アルツェナウ(ドイツ語: Alzenau, [alt͡səna͡u]、2006年12月31日まではアルツェナウ・イン・ウンターフランケン (Alzenau i.UFr.) が公式名称であった)は、ドイツ連邦共和国バイエルン州ウンターフランケン行政管区のアシャッフェンブルク郡北部の市である。

アルトエッティング

アルトエッティング(Altötting)は、ドイツ連邦共和国バイエルン州オーバーバイエルン行政管区のアルトエッティング郡の郡庁所在地。古来よりグナデンカペレの巡礼地として発展した。

ウージンゲン

ウージンゲン (ドイツ語: Usingen [ˈuːzɪŋən]) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット行政管区に属すホーホタウヌス郡の市である。1200年以上の歴史を持つタウヌス山地の「ブーフフィンケンシュタット」(ウージンゲンの愛称で「ズアオアトリの街」)は、ナッサウ=ウージンゲン家の宮廷都市であった。

ウーニェチツェ文化

ウーニェチツェ文化(英語:Únětice culture)は紀元前2300年から紀元前1600年にかけての中央ヨーロッパの青銅器時代の考古文化。

名称はプラハの北東郊外にこの文化の遺跡があるウーニェチツェ地区から採られた。中核部はチェコ、ドイツ中部と南部、ポーランド西部と中部に広がっている。

クルガン仮説

クルガン仮説 (クルガンかせつ、Kurgan hypothesis) は、ロシア南部に存在した「クルガン文化」がインド・ヨーロッパ祖語の話し手であったとする仮説である。

トシュチニェツ文化

トシュチニェツ文化(トシュチニェツぶんか、英語:Trzciniec culture)は中央ヨーロッパ東部から東ヨーロッパ西部、オドラ川西岸一帯からドニエプル川中流域にかけての広い地域に存続した先史時代文化。中心地はポーランド。紀元前1700年から紀元前1200年にかけての青銅器時代の文化。銅器時代の球状アンフォラ文化とほぼ同じ地域で、西北端部はエルベ川でなく、より東のオドラ川となっている。

東部地方ではのちのチェルノレス文化に直接つながっているため、トシュチニェツ文化はスラヴ語派の社会の発展段階において非常に重要な意味があると考えられる。一般的に、トシュチニェツ文化はその南東のコマロフ文化とともにトシュチニェツ・コマロフ文化複合として扱われ、この文化複合はプロト・スラヴ人(スラヴ語派形成の中核となった古代言語の話し手の総称)のものと考えられている。

ハルシュタット文化

ハルシュタット文化(ハルシュタットぶんか)は、中央ヨーロッパにおいて青銅器時代後期(紀元前12世紀以降)の骨壺墓地文化から発展し、鉄器時代初期(紀元前8世紀から紀元前6世紀)にかけて主流となった文化。後に中央ヨーロッパのほとんどはラ・テーヌ文化に移行した。

名称はオーストリアのザルツブルク州の南東の湖岸の村ザルツカンマーグートにある標式遺跡が出土したハルシュタットに由来する。一般的に西文化圏はケルト祖語及びケルト人と、東文化圏は(祖ー)イリュリア人と関係があるとされている。

プシェヴォルスク文化

プシェヴォルスク文化(英語:Przeworsk Culture)は紀元前2世紀から4世紀にかけてポーランドの南部と中部およびウクライナの西部に広がって存在していた鉄器時代文化。ヴァンダル族(ルギイ族)の文化と推定される。プシェヴォルスク(Przeworsk)はポーランド東南部、ポトカルパチェ県の街で、この街で典型的な遺跡が最初に発見されたことにちなむ。さらに東方のザルビンツィ文化やチェルニャコヴォ文化との類似性から、この三者は鉄器時代のスラヴ人の各地方の文化と考えられる。

ザルビンツィ文化に比べて、プシェヴォルスク文化とその北隣のゲルマン系と推定されるオクシヴィエ文化(おそらくゴート族の、集団としての最初の文化)はこの前の時代にこれらの地域に広がっていた前期鉄器時代のポメラニア文化(前7世紀-前2世紀)の特徴を色濃く引き継いでいる。

ポメラニア文化はイリュリア人と推定される青銅器時代・初期鉄器時代文化のラウジッツ文化(前14世紀-前6世紀)に、東方のスラヴ人の前期鉄器時代文化である農耕スキタイのチェルノレス文化(前12世紀-前3世紀。スラヴ語派発生の決定的な文化と考えられる。)が拡大しこれに加わって成立したものである。のちには北部一帯を中心に西方のゲルマン人の初期・前期鉄器時代文化であるヤストルフ文化(前6世紀-1世紀)の影響を受けるようになった。なお、ヤストルフ文化はゲルマン語派発生の決定的な文化と考えられ、エルベ川流域を中心として西はヴェーザー川東岸下流、東はオドラ川(オーデル川)河口域にまで広がっている(左図参照)。後にはプシェヴォルスク文化自体が南部で西進しヤストルフ文化の地域に食い込んで、ヤストルフ文化に対して影響を及ぼしている。

ポメラニア文化のうち、ヤストルフ文化の影響を強く受けた地域(ポーランドのポモージェ県と西ポモージェ県に相当する、バルト海沿岸部の土地が痩せている地方)では後の前2世紀になるとオクシヴィエ文化(前2世紀-1世紀)に発展した。これはゲルマン系の「ゲルマン人」(ゲルマニア地方の部族)であるゴート族の部族文化の成立であると推定される。

残りの地域(ポーランドのヴィスワ川とオドラ川(オーデル川)が作った比較的肥沃な平原と湿地が混在する大森林地帯)は同じ時期(前2世紀)よりバルト海沿岸一帯とは明らかに内容が異なるプシェヴォルスク文化として発展、これはスラヴ系の「ゲルマン人」(ゲルマニア地方の部族)であるヴァンダル族と推定される。

1世紀になるとオクシヴィエ文化の担い手(ゴート族と推定される)はヴィスワ川の東岸一帯で南下を開始、プシェヴォルスク文化の担い手(ヴァンダル族と推定される)のうちこの地方に住む人々の文化と融合することで即座に変貌し、ヴィェルバルク文化に発展した。

プシェヴォルスク文化の担い手(ヴァンダル族)もヴィスワ川の西岸一帯で、東岸のヴィエルバルク文化の担い手(ゴート族)と同時期に南下し、上流部ではヴィスワ川を越えて東岸一帯に大きく進出していく。このようにプシェヴォルスク文化(ヴァンダル族)とヴィェルバルク文化(ゴート族)の両者はまるで互いに競うようにウクライナへ向かって勢力を拡大していくことになる(右中図・右下図参照)。

これまで40ほどの遺跡が発見されている。これらには防塁や環濠などといった防御のための工夫がまったく見られない開けた集落もある。住居は初期には半地下式であったが、のちには地上式となった。大きな墓地もあり、火葬が習慣で、初期は直接穴に埋めていたようだが、後には骨壺を用いるのが一般化した。亡くなった人が生前に愛用していたと思われる武器も一緒に埋葬されていることがある。装飾品にはオオカミ、グリフィン、結婚式、雄ヤギ、騎士像などが精巧に彫られており、これらの象徴物は意味が互いに関連していることから、各地の部族それぞれの歴史を説明していると推測されている。

5世紀に入ると、プシェヴォルスク文化はウクライナやベラルーシの方面からやってきた類似の文化と融合、プラハ・コルチャク文化へと移行する。東方で何らかの政治的な大変動がこの直前の時代に起こった推測される(ウクライナへのフン族襲来?)。

ポメラニア文化

ポメラニア文化(英語:Pomeranian culture)、ポメラニア顔形骨壺文化(英語:Pomeranian Face Urn culture)、またはポメレリア顔形骨壺文化(英語:Pomerelian Face Urn culture)はポーランドのポメラニア地方における鉄器時代文化。

紀元前650年ごろにルサチア文化から発展し、南方へ拡大した。ルサチア文化はプロト・スラヴ系のトシュチニェツ文化を基層とするが、北欧の青銅器時代(en:Nordic Bronze Age)ともしばしば関連づけられる。

紀元前200年から紀元前150年にかけて、東ポメラニア地方ではオクシヴィエ文化に発展し、ヴィスワ川とオドラ川を遡った一帯ではプシェヴォルスク文化に発展した。

ルサチア文化

ルサチア文化(ルサチアぶんか、英語:Lusatian culture、ルサティア文化とも表記される)は後期青銅器時代から初期鉄器時代(紀元前1300年ごろから紀元前500年ごろまで)にかけて、ポーランドを中心に、チェコ・スロバキア・ドイツ東部・ウクライナのそれぞれ一部地方にかけて広がっていた文化。日本ではラウジッツ文化とも呼ばれる。「ルサチア」(ルサティア)とは地名で、ドイツ語で「ラウジッツ」、ポーランド語やソルブ語で「ウジツェ」と呼ばれる、ドイツ東部からポーランド西部にかけての地方の、ラテン語での名称。

ルサチア文化は骨壺墓地文化と呼ばれる青銅器時代の中央ヨーロッパ文化群のうちのひとつで、東部群を構成する。ウーニェチツェ文化(en:Únětice culture)のうち、東部に当たるポーランドにおける発展型であるトシュチニェツ文化の後継文化。トシュチニェツ文化はプロト・スラヴ人と関連があるとされている文化で、東はドニエプル川中流域の東岸地帯、西はオドラ川(オーデル川)の中流・上流域の西岸地帯にまで広く発展していた。なお、ウーニェチツェ文化の西部は墳墓文化を経て、のちに骨壺墓地文化の西部群を構成して、東部群のルサチア文化と併存した。

一般的には、イリュリア語がこのラウジッツ文化に由来しこの文化の担い手はこの当時この地に住んでいたときのイリュリア人であっただろうと推測されている。その後の彼らについては、すべてが南方へ移住してしまったという説と、一部が南方へ移住したいっぽうこの地に残った人々も多く、彼らの文化がポメラニア文化に移行したとする説もある。ルサチア文化は少なくともプレ・スラヴ祖語の文化であると考えられる。

プレ・スラヴ祖語の諸集団は血統としては将来のスラヴ人の基層を構成する要素となったものではあるが、その言語はその時代はまだスラヴ語派には属していないか、あるいはそもそもスラヴ語派(スラヴ祖語)そのものが未だ発生していないかのどちらかの状態である。したがって、これらの諸集団はこの時代に限定すればプレ・スラヴ祖語と同時にプレ・ゲルマン祖語の状態の諸集団であったとも言える。つまり、この人々がイリュリア人であるとすれば、南方へ移住する時代より前の古い時代のイリュリア語はスラヴ語派にもゲルマン語派にもその他の語派にもいまだ属さない言語であったと言える。

ルサチア文化の場合は、同時代の、すでにスラヴ語派(スラヴ祖語)の文化と推定されている東方のチェルノレス文化の存在から、この時代はスラヴ語派はもう発生していたと推定されるが、ルサチア文化の地域住民がスラヴ語派(スラヴ祖語)であったという明確は証拠はない。しかしルサチア文化はのちにチェルノレス文化の影響を受けてポメラニア文化に発展している。また、ルサチア文化の先駆文化はプロト・スラヴ人のものと広く考えられているトシュチニェツ文化の西方群である。したがって、このルサチア文化の住民の言語はプレ・スラヴ祖語であることはほぼ確かであるものの、それ以上のこと、つまりゲルマン語派であるとかスラヴ語派であるとかケルト語派であるとかいったことは可能性の話に過ぎない。ただし、イリュリア語についてはケントゥム語派の要素だけでなくサテム語派の要素も強く見られ、現在でもこの言語がケントゥム語派であったのかサテム語派であったのかを巡っての論争がある。スラヴ祖語は、東方からやってきたイラン語派の遊牧民社会との交流によって言語の音声や一部の語彙がケントゥム語派からサテム語派に変化したものであるため、イリュリア語にもサテム語派の要素がみられる事実は注目すべき点である。

なお、イリュリア語とゴート語との類似性についてドイツなどで過去に熱心な研究が行われていたにも関わらず、イリュリア語がゲルマン語派(ゲルマン祖語)であった可能性は限りなく低い。と、いうのも、ルサチア文化の時代にゲルマン語派が成立していた可能性そのものがほとんどないからである。現在では、ゲルマン語派はルサチア文化の終わる紀元前5世紀ごろに西方のドイツ中北部で発展していたヤストルフ文化で発生した比較的新しい語派であると考えられている。

骨壺墓地文化(の西部群)の中心であるドイツ中北部一帯はこれよりずっと古い球状アンフォラ文化の時代よりインド・ヨーロッパ語族が数次にわたってその勢力を東西南北へ広げた原郷となっており、ドイツ中北部からポーランド中部にかけての一帯はクルガン仮説では「インド・ヨーロッパ語族の第二の原郷」と呼ばれている。ルサチア文化は後期になると、スラヴ語派の文化と推定される、東隣のスキュティア地方でほぼ同時期に続いていたチェルノレス文化の影響を強く受けるようになり、その結果ポメラニア文化へと発展している。

最も有名な遺跡はポーランドのビスクピン(Biskupin)にある。

この時代は北欧の年代区分でのモンテリウスIII期からV期に相当する。北欧青銅器時代(Nordic Bronze Age)に属するスウェーデン東部と、ルサチア文化に属しポーランド北部をはじめとするバルト海南岸一帯との交流の影響が顕著に見られる。特にスウェーデン側では、ポーランド側からもたらされたと思われる装飾品が発見され、陶器、家屋の構造、墓地の形式にもルサチア文化との深い交流の跡がうかがわれる。特に社会のエリート層同士の交流が盛んであったものとみられる。このような、バルト海を挟んだ密接な交流は初期鉄器時代まで続いた。これはゴート族出身の歴史家ヨルダネスがゴート人の故地をスウェーデン東部としていたことに結びつけられて考えてきたが、近年の調査により、スカンジナヴィアから多くの人々がバルト海南岸に移住してきたという説そのものが放棄されていて、ヴィェルバルク文化(ゴート族が大きく勢力を広げた時期の文化)はバルト海南岸における前の時代の土着の諸文化に由来すると推定されている。そして、ゴート族の起源が北欧にあるとする説(ゴート起源説)は、おそらく4世紀に捏造されたものであるか、あるいは単なる伝統的な俗説の類だと考えられている。ルサチア文化その他の骨壺墓地文化に属する諸文化とスカンジナヴィア半島東部との後期青銅器時代から初期鉄器時代にかけての長期にわたる深い社会的交流があったこと自体はおそらく事実であろう。ゴート族はおそらくポメラニア地方でルサチア文化ないしその後継のポメラニア文化から発生した地方文化のオクシヴィエ文化で部族として成立し、のちに移動を開始するとその経路にあったプシェヴォルスク文化(の一部)と融合してヴィエルバルク文化となり拡大発展することになる。このようにスウェーデン東部との密接な交流があったことから、ルサチア文化は北欧青銅器時代に含まれる諸文化のひとつと見られることもある。また、留め金や留め針といった装飾品や武器には、ハルシュタット文化とラ・テーヌ文化の影響が見られる。

ヴェールハイム

ヴェールハイム (ドイツ語: Wehrheim) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット行政管区に属すホーホタウヌス郡の町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。

世界の歴史

世界の歴史(せかいのれきし)では、太古、地球上に現れた人類が長い歴史を経て現代に至るまでを略述する。

墳墓文化

墳墓文化(英語:Tumulus culture)は紀元前1600年ごろから紀元前1200年にかけて存続した、中央ヨーロッパにおける中期青銅器時代の文化。

中心部はウーニェチツェ文化(en:Únětice culture)の範囲のうち西部にあたるバイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州のあたり。ウーニェチツェ文化のうち、この西部地方における後継文化。なお、東部地方におけるウーニェチツェ文化の後継はトシュチニェツ文化。

骨壺墓地文化の西部群の諸文化へと引き継がれた。

死者はクルガン墳墓に埋葬されたため、墳墓文化と名づけられた。

球状アンフォラ文化

球状アンフォラ文化(英語:Globular Amphora culture)は紀元前3400年ごろから紀元前2800年ごろにかけて、西はエルベ川西岸地方、東はドニエプル川中流域まで広がっていた銅器時代文化。インド・ヨーロッパ語族の中央ヨーロッパ、バルカン半島、ギリシャへの進出に関して非常に重要な意味があると考えられている。原ギリシャ人もこの文化に含まれる。

この範囲は、これより前の新石器時代のヨーロッパに漏斗状ビーカー文化が広がっていた地域とだいたい同じで、球状アンフォラ文化の草創期には両文化が同時に存在していた。

住居の遺跡よりも墓地の遺跡がよく発見されている。ただしポーランドでは住居の遺跡もよく発見されており、ほぼ四角形の基礎を持つ家屋や、丸い基礎を持つ半地下式の小屋といったものが発掘調査されている。家屋は孤立していたり、複数が集まっていたりしており、個々の家族の家屋が点在している場合と、村落となっている場合とがあることが分かる。大半は移動の途中で一時的に建てられた住居で、定住型の住居についてははっきりしたことは分かっていない。彼らはつねに住地を移動していたものとみられる。

主に牧畜を営んでおり、牛、豚、羊、ヤギ、犬、馬などを飼っており、アカシカ、ノウサギ、鳥類、魚類を獲っていたようである。球状アンフォラ文化の草創期は圧倒的に豚を飼っている場合が多く、この前の時代のこのあたりの文化である漏斗状ビーカー文化が圧倒的に牛を飼っている場合が多いのと好対照をなす。ただし球状アンフォラ文化のいくつかの遺跡でも牛が主体の牧畜を行っていることはある。小麦、スペルト小麦、大麦、エンドウマメなどを栽培していた。

この文化は、2つか4つの小さな取手がその絞った首のちかくに付いている、独特の丸い形をした土器(「アンフォラ」と呼ばれる)で知られている。「球状アンフォラ文化」の名称はここから来ている。この土器には様々な模様がついている。墓地からはフリント(石英の一種)製の平らな斧がよく見つかる。土葬を行い、遺体を墓穴に直に埋めるか、あるいは石棺を用いる。遺体は腰と膝を折り曲げて右または左の横向きに寝ており、頭は必ず東を向いている。石棺の蓋には複合弓などの彫刻が施されている場合がある。副葬品には、アンフォラ、その他の土器、フリント製の斧、ナイフ、鏃(やじり)、琥珀(こはく)のビーズのほか、動物の骨製で作ったさまざまな製品などがある。豚の下顎の骨やイノシシの牙も見つかっており、これらの動物を生贄にしたことがうかがわれる。牛一頭分の骨がまるごと見つかることもある。木製の盾と思われるものも発見されている。

球状アンフォラ文化がインド・ヨーロッパ語族の起源や拡大についての議論に登場するのは、この文化の経済が移動型であること、おそらく馬が家畜化されていたこと、特徴的な陶器が作られていること、が主な理由である。この文化の陶器はコーカサス山脈北麓のマイコープ文化や、ドニエプル川中流域のミハイロフカ下層文化と関連があると推測される。陶器には移動の際に台車あるいは動物の背などに複数まとめて固定して運ぶのに都合の良い工夫が施されている。異論はあるものの、コーカサス山脈地方と北部ヨーロッパ平原地帯との直接的なつながりがあるとも主張されている。特にクルガン仮説においてはこの地域的つながりが強調される。球状アンフォラ文化の埋葬の儀式、とくに寡婦の殉死の習慣が頻繁に見られることは、インド・ヨーロッパ語族との関連を扱ううえで非常に重要である。生贄の牛を埋葬し、琥珀の日輪像を副葬品とするなどの風習は、インド・ヨーロッパ語族にとりわけ特徴的である。

この文化の人々の身体的特徴は東方のステップ地帯のものに似ており、特に、この文化の東部にあたるウクライナ西部、モルドバ、ルーマニア北部の一帯においてはこの特徴が顕著である。しかし馬、生贄の動物の埋葬、斧といった象徴的なものはその前の時代のこの地に存在した漏斗状ビーカー文化やレンジェル文化にもある程度見ることができることから、球状アンフォラ文化の起源をこの一帯、特に、この文化の中心部であるポーランドにおける土着の文化の発展拡大にあると考える人々は、球状アンフォラ文化と東方のステップ文化との関連性については疑問を呈している。最新の分析によると、球状アンフォラ文化の起源はこの地の土着の複数の文化や隣接した様々な文化との複合的な関係が考えられ、以前に唱えられていたような、外来であるとか土着であるとかいった単純な排他的発生過程を経ているわけではないようである。(Y-DNAハプログループR1aおよびクルガン文化の担い手の遺伝的特徴の項目を参照。)

球状アンフォラ文化はその地理的広がりから、ゲルマン語派、スラヴ語派、バルト語派、ヘレニック語派(古代ギリシア語)の基層文化と推定される。さらにケルト語派やイタリック語派の各地の社会の政治的支配層はこの文化に由来し、のちの青銅器時代を通じて西欧や南欧の土着の非インド・ヨーロッパ語族の社会(鐘状ビーカー文化の社会など)を次々と支配することによりそれぞれの語派を拡大した、と考えられる。

発掘結果から、球状アンフォラ文化の中心地はポーランド中部と推定される。これは東方文化のヨーロッパ北部への進入経路を考える際、カルパチア山脈、南ブク川、ドニエストル川、ヴィスワ川、オドラ川、エルベ川など、山脈や水系の構造から自然なことと思われる。歴史時代においてもこの経路での東西ヨーロッパ諸文化の往来は非常に盛んであった。さらにポーランド中部や南部においては最も古い時代の縄目紋土器が見つかっていることから、縄目紋土器文化は球状アンフォラ文化の中心部であるポーランドから発生してライン川西岸地方からヴォルガ川中流域までの広大な地域を占めるようになったと考えられる。また、ポルトガル西端部で発生し広まった非インド・ヨーロッパ語族の鐘状ビーカー文化(ベル・ビーカー文化)はインド・ヨーロッパ語族の縄目文土器文化や球状アンフォラ文化の人々と接触し、言語交替が起きてほぼ全体がケルト語派となったと推測される。マリア・ギンブタスはそのクルガン仮説において、球状アンフォラ文化をインド・ヨーロッパ語族の第二の源郷と位置づけている。(第一の源郷ははるか東方、ドニエプル川流域からヴォルガ川流域にかけての、アゾフ海とコーカサス山脈の北側に広がるステップ地帯。)

紀元前12世紀

紀元前12世紀(きげんぜんじゅうにせいき)は、西暦による紀元前1200年から紀元前1101年までの100年間を指す世紀。

紀元前13世紀

紀元前13世紀(きげんぜんじゅうさんせいき)は、西暦による紀元前1300年から紀元前1201年までの100年間を指す世紀。

鐘状ビーカー文化

鐘状ビーカー文化(かねじょうビーカーぶんか、英語:Bell-beaker culture、あるいはビーカー文化、Beaker culture、広口杯文化、さらにはビーカー民、Beaker folk/Beaker people)は紀元前2600年ごろから紀元前1900年ごろまでの、後期新石器時代から初期青銅器時代にかけて広がっていた、鐘状ビーカーと呼ばれる独特の大型広口杯の水平分布域(cultural horizon)。「文化」とつくが、単一の文化圏ではない。

ケルト語派の諸言語やその社会の初期の発展段階と非常に密接な関係があるとも見られているが、起源や担い手については研究途上である。

青銅器時代

青銅器時代(せいどうきじだい)は、考古学ないし歴史学において、石を利用した石器の代わりに青銅を利用した青銅器が主要な道具として使われた時代を指す術語である。

他言語版

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