陰陽寮

陰陽寮(おんようりょう、おんみょうりょう、おんようのつかさ)は、日本律令制において中務省に属する機関のひとつ。占い天文暦の編纂を担当する部署。「うらのつかさ」とも。

概要

四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんようのかみ)を始めとする幹部職と、陰陽道に基づく呪術を行う方技(技術系官僚)としての各博士及び陰陽師、その他庶務職が置かれた。陰陽師として著名な安倍晴明は陰陽頭には昇らなかったが、その次男吉昌が昇格している。

博士には陰陽師を養成する陰陽博士、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれ、陰陽、天文、暦3博士の下では学生(がくしょう)、得業生(とくごうしょう)が学ぶ。

因みに天文博士は、天体を観測して異常があると判断された場合には天文奏天文密奏を行う例で、安倍晴明も任命されている。

飛鳥時代(7世紀後半)に天武天皇により設置され、明治2年(1869年)に時の陰陽頭、土御門晴雄薨じたのを機として翌年廃止された。なお、天平宝字2年(758年)から8年までは、藤原仲麻呂による官号改易(仲麻呂失脚後、復旧)により、「太史局」と称されていた。

職員

陰陽寮官位相当
従五位
正六位
従六位 助・権助
正七位
陰陽博士
天文博士
従七位 允(大允・少允)
陰陽師
暦博士
漏刻博士
正八位
従八位
大属
大初位 少属
陰陽頭(おんようのかみ)
長官として陰陽寮を統括し、天文、暦、風雲、気色のすべてを監督する。異常発生時には外部に漏れることなくこれを記録密封し極秘に上奏し(天文密奏)、暦博士が作成した新年の暦を毎年11月1日までに調進(御暦奏)、また都度占筮及び地相の結果を上奏する職務。定員1名で官位従五位下相当。
陰陽助(おんようのすけ)
陰陽頭の補佐業務を行った次官。従六位上相当。定員は初め1名であったが後に権官も置かれるようになった(下述)。
陰陽允(おんようのじょう)
判官(第3等官)。寮内を糾見し書類の審査など寮内事務全般の管理を行った。従七位上相当。定員は初め1名で後に大允(たいじょう)と少允(しょうじょう)の2名が置かれた(下述)。
陰陽大属(おんようのたいぞく)・同少属(しょうぞく)
主典(第4等官)。大属は公文書の記載・読上げなどの記録実務を、少属は大属を補佐する記録実務を行った。定員各1名。大属は従八位下、少属は大初位上相当。
陰陽師
占筮(吉凶を占うこと)、地相(方位を観ること)の専門職。従七位上相当で定員は6名。
陰陽博士
陰陽道の主担当者。修習生である陰陽生(おんようのしょう)を指導する。定員1名。正七位下相当。天文博士と同様に高い位に設定されている。
天文博士
天文道の主担当者。「天文の気色を観測して異変があれば部外に漏れぬようこれを密封する」とともに、修習生である天文生(てんもんのしょう)を指導する。定員1名で正七位下相当。正七位下の官位は他の博士よりも高いが、これは陰陽諸道の中では天文道(天文学)が最も難しいとされたためである。
暦博士
暦道の主担当者。暦の作成・編纂・管理を担当し、修習生である暦生(れきのしょう)を指導する。定員1名。従七位上相当。
漏刻博士
時間管理の主担当者。漏刻(水時計)の設計・管理を指導し、実際に守辰丁を率いて漏刻を稼動させ、その目盛りを読み時刻を管理する職務。2交代制のため定員は2名。従七位下相当。
学生・得業生
博士の下で各道を修める学生(修習生)で、天文、陰陽、暦の3道それぞれに各10名が配され、また博士を目指す得業生(2から3名)も置かれた。
守辰丁(しゅしんちょう)
漏刻博士の管理の下で漏刻を測り、毎時ごとに鳴り物(太鼓鐘鼓)を打ち鳴らして時報を知らせる実務担当者。定員20名。
使部(じぶ)・直丁(じきちょう)
陰陽寮以外にも各省・寮に共通に配置された庶務職で、使部は定員20名、直丁は定員2名。

官人の肥大化に伴い本来は員外配置である権官(律令本来の定めにはない運用法で、当初の実態は該当職務を行わないにもかかわらず該当職と同等の待遇とする暫定名誉職位であり、正規の任命ではない「仮」という意味の「権(ごん)」を冠せられた待遇職のことであったが、後に常設化されると正官と同等かそれに近い権限を持つようになった)等が常態化する。「助」の権官である陰陽権助(ごんのすけ)が正官の陰陽助同様従六位を与えられて陰陽頭の補佐を行うようになり、允も陰陽大允と同少允各1名が置かれ、少允は大允を補佐する立場をとったが官位は双方同格の従七位上とされた。

方技においても各博士を補佐する権博士(ごんのはくじ)が常設化されたが(天文権博士陰陽権博士暦権博士漏刻権博士)、こちらの官位はすべて各正博士よりも一段階低く設定され、学生も大学寮の修業生(しゅうぎょうのしょう)の運用にならって、天文得業生(てんもんとくごうしょう)(定員2名)、陰陽得業生(おんようとくごうしょう)(定員3名)、暦得業生(れきとくごうしょう)(定員2名)が、各博士職や陰陽師職の公認候補として設置された。

また、庶務職においても史生と寮掌が新設された。陰陽史生(おんみょうのししょう)(定員不明)は文書の複写や寮内で稟議書を届けて回る伝令として用いられたようであるが、史生職は現存する記録が不充分でその実態は明らかにされておらず、本来律令で定められた使部(じぶ)の一部が転用されたとする説や新規に職制として設置されたとする説がある。

関連項目

あまつき

『あまつき』は、高山しのぶによる日本のファンタジー漫画。作者曰く「近未来もの」。『コミックZERO-SUM』(一迅社)連載(完結)。単行本は全24巻。4・5・8・10・20〜24巻は限定版と通常版とで表紙が異なる。2006年よりドラマCDが誌上にてシリーズ化され、テレビアニメ化後は一般流通販売もされている。2008年4月から同年6月までテレビアニメが放送された。

中務省

中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつ。和名は「なかのまつりごとのつかさ」。唐名は中書省など。「中」は禁中の意。

具注暦

具注暦(ぐちゅうれき)とは、日本の朝廷の陰陽寮が作成し頒布していた暦である。

吉凶判断のための様々な暦注が記載されていたことから、注が具さ(つぶさ)に記入されているということで、このように呼ばれる。巻暦の体裁で、漢字のみで記される。基本的には上段に日付・干支・納音・十二直などの基本的な項目・暦注が記載され、中段には二十四節気・七十二候などが、下段にはその他の暦注が記載され、半年分で1巻とされた(従って上下2巻で1年分となる)。

現存する最古の具注暦のうち、紙に書かれたものは正倉院文書の天平18年(746年)暦である。

奈良時代から具注暦に日記を書く習慣が生まれ、平安時代には余白部分が拡大されるようになる。藤原道長の日記が書き込まれた具注暦は『御堂関白記』と呼ばれ、国宝となっている。(このようなものを、当時は『暦記』と呼んだ)

鎌倉時代後期を過ぎると仮名暦の登場によって衰退するが、それでも公式の暦として重んじられた。江戸時代には、実用よりも公家や大名の「ステータスシンボル」として作られることが多くなった。

明治改暦による太陽暦への移行によって仮名暦ともども廃絶した。

典薬寮

典薬寮(てんやくりょう/くすりのつかさ、薬司)は、律令制により制定された機関で、宮内省に属する医療・調薬を担当する部署。

勘文

勘文(かんもん)とは、朝廷から諮問を依頼された学者などが由来・先例等の必要な情報を調査して報告(勘申)を行った文章のこと。主に外記や神祇官・検非違使などの官人、大学寮や陰陽寮に属する諸道の学者などが行った。諸道の学者による勘文を特に諸道勘文ともいう。

天文博士

天文博士(てんもんはかせ)とは、律令制の陰陽寮に設置された教官で天文道のことを担当する。正七位下相当。定員は1名であるが、後に権官も設けられた。

天文学史

天文学史(てんもんがくし、英語:history of astronomy)は、天文学の歴史についての事である。その歩みは人類の歴史とともにあったと言っても過言ではない。

天文道

天文道(てんもんどう)とは、天文現象の異常(天文異変/天変現象)を観測・記録し、その地上への影響について研究する古代の学問。陰陽寮で教えられていたものの一つ。今日で言う天文学に相当するが、内容的には占星術の色合いが強く、科学とは程遠いものであった。

安倍晴明

安倍 晴明(あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むことが多いが、これは音読みであり、諱本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖。官位は従四位下・播磨守。

少年陰陽師のWEBラジオ

『少年陰陽師のWEBラジオ』(しょうねんおんみょうじのウェブラジオ)は、アニメイトTVにおいて配信されている少年陰陽師のWEBラジオ番組。

2006年4月から2008年6月26日まで毎週木曜日に配信された『少年陰陽師・彼方に放つ声をきけ〜略して孫ラジ』(しょうねんおんみょうじ・かなたにはなつこえをきけ~りゃくしてまごラジ)及び、2008年7月10日よりリニューアルされ2009年10月まで、第2・第4木曜日に配信されていた『少年陰陽師・陰陽寮 電脳部 放送局~略して孫ラジ』(しょうねんおんみょうじ・おんみょうりょう でんのうぶ ほうそうのつぼね~りゃくしてまごラジ)の2番組がある。(2006年12月まではラジオ関西558kHzでも放送していた)

暦博士

暦博士(れきはかせ)は、日本の律令制における官職の1つ。中務省陰陽寮に属して、毎年の造暦(暦の作成)と改暦、日食の予測、暦生の教育にあたった。定員1名(後に権官1名追加)・従七位上相当(ただし、後世では五位以上が慣例となる)。和訓は「こよみのはかせ」。唐名は司暦・司暦正保。

暦道

暦道(れきどう)とは、古代日本における暦を作成するための学問(暦学)のことである。陰陽寮で教えられていたものの一つ。

『日本書紀』には、欽明天皇の時代に百済の暦博士が来日した記事が記されているが、本格的な暦学の伝来は推古天皇12年(602年)の百済僧・観勒の来日による。従って日本の暦道の起源はここに求められる。

律令制においては、大学寮ではなくて陰陽寮の管轄とされ、太陽・月を観測して暦を作成することが規定されて暦博士(1名もしくは2名)・暦生(10名)などが定められたが、実際には中国の暦法を輸入して日本で採用していたため、暦道は毎年の暦注の記入と暦の頒布(具注暦)、七曜暦・中星暦の作成や日食の予測に限定され、また天文道や算道とも被るところがあったため振るわなかった。このため、天平2年(730年)より暦生のうち優秀者2名を暦得業生として給費を行うなどの措置を取った。教科書としては『漢書』・『晋書』の暦律志や採用されている暦の注釈書(『大衍暦議』・『宣明暦経』)、『定天論』・『周髀算経』などが用いられた他、算道の教科書である『九章算術』・『六章』などの数学書も用いられている。また、暦注の記載に関しては『大唐陰陽書』などを参照したとされている。平安時代に入ると、暦日と密接な方角禁忌が貴族の間で尊重されて、それらを知るための暦注が含まれた具注暦への需要が高まった。このため、次第に暦道も科学的な暦学から陰陽道的な色を帯びたものに変質していくことになる。

平安時代中期の賀茂保憲が子の光栄に伝授して以後、賀茂氏の家学となるが、保憲は日食予想の成功率の低下などを憂慮して呉越に留学していた日延(天台宗)に依頼して持ち帰らせた符天暦の採用を図ったが朝廷に採用されず、光栄以後は表面上は宣明暦を掲げながら、秘かに符天暦も併用した。その一方で、符天暦と密教が結びついた宿曜道の台頭が暦道を脅かした。当初、暦道と宿曜道が共同して暦を作成していた時期もあった(『小右記』長和4年7月8日条)が、長暦2年(1038年)頃に両者の対立から宿曜道側が暦道の批判に回ったという(『春記』長暦2年11月27日条)。

更に当時の風習として、「朔旦冬至」(19年周期の最初の年に11月1日が冬至となること。慶事とされる一方で、大規模な儀式に費用がかかった)の到来や回避、「19年周期に7回訪れる閏月の最初が閏8月ではいけない」、「大の月が4連続してはならない」などの迷信が信じられて、これに基づいて天体の動きとは無関係に人為的な暦の調整(「改暦」)が行われたほか、場合によっては暦算の誤りとそれを隠すために改暦を行うに至り、符天暦の仕組を巧に用いて「口伝・秘伝」と称して本来あり得ない置閏法の設定などによる暦を作成して極秘に調整する(日食や夏至・冬至の予定が狂う可能性が高くなる)などの暦道の振舞いに対して算道・宿曜道側からの激しい攻撃を受けた。更に鎌倉時代以後には仮名暦・民間暦も登場した事によりその地位は大きく低下する事となる。

室町時代に入ると、暦博士が天文密奏を行う例も見られるが、賀茂氏の嫡流である勘解由小路家の断絶により、土御門家が暦道の主導権を握り、賀茂氏の庶流幸徳井家を圧迫して傘下に加えた。更に全国の陰陽師・暦師を傘下に加えて暦の販売に関して冥加金を取り立てる権限を獲得した。だが、明治維新後に陰陽寮が廃止され、暦道に代わって東京天文台が暦に関する業務を行うようになる。

町丁

町丁(ちょうちょう)とは日本の市区町村下における区画であり、国勢調査などの人口統計等の分野で用いられる学術用語。法令上の正式な名称としては町であり、地方自治法では字と合わせた「町又は字」の区域・名称についての新設・変更・廃止の手続が規定されている。住居表示実施地区においては街区符号、未実施地区においては地番よりも上に位置づけられる単位である。成立の経緯から市街地を中心に設けられており、農村部における字(あざ:大字と小字)に対応するが、「町」と「字」は排他的なものではなく混在する場合もある。

算道

算道(さんどう)とは、日本律令制の大学寮において、算術を研究する学科。

賀茂氏

賀茂氏(かもうじ、加茂氏/鴨氏/加毛氏)は、賀茂(加茂・鴨・加毛)を氏の名とする氏族。以下の3系がある。

阿倍氏

阿倍氏(あべうじ、のち安倍氏)は、「阿倍(安倍)」を氏の名とする氏族。

孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である。飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出する。平安時代以後は「安倍」と称する。

陰陽博士

陰陽博士(おんみょうはかせ)は、律令制で陰陽寮に設置された教官の1つ。陰陽師を教育することを掌った。定員1名(ただし実数には異説あり)。正七位下相当。

『日本書紀』持統天皇6年(692年)の条が初出。ただし、定員については『続日本紀』養老5年(721年)に大津首・津守通の両名が陰陽博士として登場しており、実際には定員が複数だったとする見方もある。陰陽生10名を教育するのが役目であったが、天平2年(730年)に陰陽寮強化の一環としてうち3名を陰陽得業生として給費し、更にそこから後任の陰陽師・陰陽博士が選ばれた。後には博士に対して職田4町が与えられた。教科書としては、子部五行類の『新撰陰陽書』・『黄帝金匱経』・『五行大義』・『周易』・『難儀』などが用いられた。奈良時代から平安時代初期にかけては、大津氏・弓削氏・滋岳氏などが、平安中期には惟宗氏・安倍氏・賀茂氏などが世業としていたが、平安後期以後は安倍氏と賀茂氏による世襲となった。

陰陽師

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指すが、それら官人が後には本来の律令規定を超えて占術など方術や、祭祀を司るようになったために陰陽寮に属する者全てを指すようになり、更には中世以降の民間において個人的に占術等を行う非官人の者をも指すようになり、声聞師と重ねられることもあって「声聞師」と呼ばれる場合もあった。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。

なお、本来は「おんようじ」と訓んだが現代は専ら「おんみょうじ」と訓まれ、これは「おんようじ」が連声化して「おんみょうじ」となった(「陰」は中国語中古音で「*ʔi̯əm」、中世日本語音で「*wom」なので、連声化するとま行の音になる)ものとされ、また「おんみょうじ」と先頭を強調する発音が定着しているが、かつては「おんみやうぢ」と2音目に揚音があったと言われている。

陰陽道

陰陽道(おんみょうどう・おんようどう・いんようどう)は、陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じで国家機関の各部署での技術一般を指す用語であり、思想ないし宗教体系を指す用語ではない。古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。

陰陽道に携わる者を陰陽師とよんでいたが、後には陰陽寮に属し六壬神課を使って占いをし、除災のために御払いをするもの全てが陰陽師とよばれるようになった。陰陽師集団を陰陽道と呼ぶことがある。

平安時代中期~後期以降に陰陽道宗家となった家系としては、安倍氏とその嫡流の末裔・土御門家および、賀茂氏とその嫡流の末裔・勘解由小路家があった(後述)が、勘解由小路家は戦国時代から江戸時代初期にかけて断絶し、賀茂氏庶流・幸徳井家は明治以降消息不明となった。現代においては、土御門家およびその庶家・倉橋家の子孫が健在するが、明治維新以降は陰陽道との関わりを絶たれ(後述)、現代に至っては全く陰陽道と無縁である。福井県大飯郡おおい町に現存する神道の教派・天社土御門神道は、歴史的に陰陽道および土御門家と関わりのある宗教団体ではあるものの、関係者は土御門家の末裔ではない。

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