紀元前3世紀

紀元前3世紀(きげんぜんさんせいき)は、西暦による紀元前300年から紀元前201年までの100年間を指す世紀

千年紀: 紀元前1千年紀
世紀: 前4世紀 - 紀元前3世紀 - 前2世紀
十年紀: 前290年代 前280年代 前270年代 前260年代 前250年代
前240年代 前230年代 前220年代 前210年代 前200年代
Terracotta Army Pit 1 - 2
の中国統一。秦の始皇帝により春秋戦国の混乱に終止符が打たれ、強力な中央集権体制が進められた。画像は始皇帝陵から出土した兵馬俑の一団。
Liu Bang
前漢の建国。秦の統一が15年で破綻すると各地で反乱が相次いだが、項羽らを倒し再び中国をまとめ上げたのが劉邦であり、市井の民から前漢の初代皇帝高祖となった人物である。画像は清の上官周が描いた『晩笑堂画伝』の劉邦の肖像。
PHAROS2006
アレクサンドリアの大灯台。「世界の七不思議」の一つで、前305年から着工されプトレマイオス2世の治世(前288年 - 前246年)に完成したと伝わる。画像はその再現図。
0 Galata Morente - Musei Capitolini (1)
「瀕死のガリア人」。ヘレニズム時代を代表する彫刻で小アジアのペルガモン国王アッタロス1世がガラティア人(ガリア人)に勝利した記念に作らせたものとされる。画像はローマ時代の模造でカピトリーノ美術館に所蔵されている。
Hannibal3
ハンニバルアルプス越え。第二次ポエニ戦争ではカルタゴ側の将軍ハンニバルが巧みな軍略でローマ軍を翻弄した。イベリア半島から遠路はるばるアルプスを象で越え油断していたローマの背後を不意打ちしたことで有名である。
Archimedes before his death with the Roman soldier, Roman mosaic
アルキメデスシラクサヒエロン2世に仕えた学者で、風呂に入ってる途中で王冠の真贋を見極める方法を発見したなど逸話に事欠かない。画像は紀元後2世紀のモザイク画でローマの兵士に殺害される寸前のアルキメデスを描いている。
Coloso de Rodas.
ロドス島の巨像。ロドス島住民がプトレマイオス朝に与しセレウコス朝を退散させた記念にリンドスのカレスによって作られた太陽神ヘリオスの青銅の像で「世界の七不思議」の一つでもあった。画像はその再現画。
Sanchi portique sud
マウリア朝アショーカ王。最初のインド統一を果たしたアショーカ王は仏教の興隆にも力を尽くした。画像はサーンチーの第一ストゥーパ(仏塔)でアショーカ王の時代に建立されシュンガ朝・アーンドラ朝で拡張された。仏塔の前に立つトーラナ(塔門)には獅子像がある。
AiKhanoumSunDial
グレコ・バクトリア王国。アレクサンドロス大王の東方遠征の残留ギリシア人によりこの王国は現在のアフガニスタンに建国された。画像はアイ・ハヌム遺跡から出土した日時計でインド天文学の影響が窺われる。
PazyrikHorseman
パジリク古墳群。ロシア連邦アルタイ共和国にあるスキタイ文化の影響を受けた騎馬民族の古墳で、入れ墨をした遺体と数多くの副葬品が出土した。画像は古墳の壁面覆いの「乗馬する男」。

できごと

日本(弥生時代)

中国(周・戦国時代から秦・前漢)

北アジア

東南アジア

南アジア

中央アジア・西アジア

地中海世界

ローマ

ギリシア・小アジア

エジプト・シリア

中央ヨーロッパ・北ヨーロッパ

  • 紀元前3世紀 - 中期ラ・テーヌ文化時代( - 紀元前1世紀)。
    • テムズ川から発見された「バターシーの盾」(大英博物館蔵)が作られる。
    • 南フランスのロクペルテューに頭蓋骨崇拝の聖所が設けられる。
  • 紀元前300年頃 - ケルト系ビトゥルゲス族によりブルディガラ(現ボルドー)が建設される。

人物

中国と周辺諸国

地中海世界

ヘレニズム諸国家とギリシア

共和政ローマとカルタゴ

南アジア・西アジア

フィクションのできごと

  • 紀元前246年 - 天下の大将軍を夢見る戦災孤児の信のもとに、弟の成蟜に位を奪われた若き秦王嬴政が逃れてくる、秦王の顔立ちは信のかけがえのない友人漂と瓜二つであった。この運命的な出会いから、中国統一の大きな野望と戦いが繰り広げられることになる(原泰久の漫画『キングダム』)。
  • 紀元前241年以降 - 第一次ポエニ戦争に敗北したカルタゴでは各地で反乱が勃発する。ハミルカル・バルカの娘で神殿の巫女サランボーは、反乱軍に奪われた聖なる布を返還してもらうべく反乱軍指導者マトーのもとを訪れる(ギュスターヴ・フロベールの小説『サランボー』)。
  • 紀元前214年以降 - 北方の遊牧民から中国を守るべく、皇帝の命により万里の長城の建設が始まったのは、「私」が初等教育を終えたその年のことであった。以来、いつ果てるとも知れぬ終わりなき工事が、延々と続いている。すでに皇帝の命であるとか遊牧民を抑え込むといった目的から逸脱し、何のためのものなのか誰もが知らぬままそれでも工事は更に続く(フランツ・カフカ『万里の長城』)。

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク

  • ウィキメディア・コモンズには、紀元前3世紀に関するカテゴリがあります。
アルゴナウティカ

『アルゴナウティカ』(Ἀργοναυτικά / Argonautika)は、紀元前3世紀にロドスのアポローニオスによって書かれた叙事詩。ヘレニズム時代の叙事詩では、唯一現存しているものである。この本の中で語られる内容は、黒海最果ての未知の地コルキスから金羊毛皮を取り戻そうとするイアーソーンとアルゴナウタイの航海の物語である。

カリア文字

カリア文字(カリアもじ)は、アナトリア半島西南部のカリアでカリア語を表すために使われた文字。紀元前7世紀から紀元前3世紀にかけて作られた碑文が、エジプト、カリア、ギリシアに残っている。

ギリシア文字に似たアルファベットであるが、その音価は同じ形のギリシア文字とまったく異なっている。

カリア文字の碑文は19世紀から知られていたが、1990年代になってようやく読み方が判明した。

パーリ語

パーリ語(パーリご、पाळि、Pāḷi、巴利語、略して巴語)は、南伝上座部仏教の経典(『パーリ語経典』)で主に使用される言語。バーリ語とも。なお日本における仏教関連の辞典や書物では pl などと略称される。

古代中西部インドにおけるアーリヤ系言語、プラークリット(俗語)を代表する言語である。使用歴は長く、パーリ語で書かれた偈の歴史は紀元前3世紀頃まで遡る。プラークリットの中でも最も古い言語の一つである。パーリ語で書かれた上座部仏教経典の散文やその注釈は、5-6世紀以後にまで及び、その後も今日までスリランカ(セイロン島)を中心として、パーリ語を使用した新しい文献がある。

ブッダガヤ

ブッダガヤ(サンスクリットBuddha-gayā、ヒンディー बोधगया)は、インド北東部ビハール州、ガヤー県にある仏教の聖地。ガンジス川の支流ニーラージャナー川(リラージャーン川、ナイランジャナー、尼連禅河)に臨む。仏陀伽耶、ボードガヤー(Bodhgaya)あるいはボード・ガヤー(Bodh Gaya)、単にガヤー(Gaya) とも表記する。

釈迦(如来)が菩提樹の下で成道(悟り)を開いたとされる地として知られる八大聖地の1つで、仏教では最高の聖地とされている。紀元前3世紀頃にアショカ王の建立とされる寺院を起源とするマハーボディ寺院がある。マラーター王国の宰相バーラージー・バージー・ラーオといった権力者も訪れている。

メソアメリカ

メソアメリカ(Mesoamerica)は、メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域を指し、パウル・キルヒホフの文化要素の分布研究により定義された。地理的には、北はメキシコのパヌコ川からシナロア川あたりまで、南はホンジュラスのモタグァ河口あたりからコスタリカのニコヤ湾あたりまでであるが、この境界線は歴史的に一定していたわけではない。

下記のように壮麗な神殿ピラミッドなどを現在も残すメソアメリカ文明が繁栄した地域であるメソアメリカでは、

定住農村村落の成立(紀元前2000年以後)

オルメカ文明(メキシコ湾岸;紀元前1250頃-紀元前後)

テオティワカン文明(メキシコ中央高原;紀元前後-7世紀頃)

マヤ文明(メキシコ南東部、ユカタン半島、グアテマラなど;紀元前3世紀-16世紀)

トルテカ文明(メキシコ中央高原;7世紀頃-12世紀頃)

サポテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;紀元前10世紀-16世紀)

ミシュテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;)

タラスカ王国(メキシコ西部地域、ミチョアカン州など;)

アステカ帝国(メキシコ中央高原;15世紀前半-1521年)などが興亡した。

これらの文化はアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の文明との交流を経験せず、地理的に孤立した環境で発展した。そのため、製鉄技術を知らず、宗教においても独自な体系を成立させるなど、他大陸の文明とは際立った特徴を有していた。

神殿文化は紀元前二千年紀の末に起こり、それから約2500年の間、外部世界の影響や干渉を受けることなく自力で発展し続けた。ところが15世紀の末、コロンブスに率いられたスペイン人が突然侵入してきた。

世紀

世紀(せいき)とは、西暦を100年単位で区切った範囲に対しての呼称である。百年紀。“century”(英 /ˈsenʧɚi/ センチュリー)の訳語(語源はラテン語で「百」を意味する"centum")である。「世紀」を「C」という略記号で表すことがある(例えば、“20C ”は20世紀を表す)。

世紀は紀元後については、西暦元年(1年)から100年区切りごとに一単位として数える序数で表現される。また紀元前の世紀についても、紀元前1年から遡って100年区切りごとに数える(後述)。このため、紀元0年が存在しないことと同様に、「0世紀」というものは存在しない。例えば、21世紀は英語で“The 21st (twenty-first) century ”と表現される「21番目の世紀」「第21世紀」という意味である。

また、天文学では時間的な「量」の単位としてユリウス世紀(= 36 525日)が用いられる(後述)。この他、世紀は様々な表現に使用されており、本項ではこれらの表現についても解説する。

北周

北周

西部が北周(周)の領域。北東部が北斉(斉)、中央が後梁(梁)、南東部が陳。

北周(ほくしゅう、拼音: Bĕizhōu、556年 - 581年)は、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国。国号は単に周であるが、紀元前11世紀から紀元前3世紀まで続いた周を始めとする同名の王朝と区別するために北周と呼ぶ。

君主の称号としては当初、秦以来の中国の歴代王朝が称していた「皇帝」号をやめ、「天王」を採用している。

年の一覧

年の一覧

紀元前1千年紀

紀元前1千年紀(きげんぜんいっせんねんき)は、西暦による紀元前1000年から紀元前1年までを指す千年紀(ミレニアム)である。現在からおよそ2000年〜3000年前に当たる。

紀元前224年

紀元前224年は、ローマ暦の年である。

当時は、「ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスとクィントゥス・フルウィウス・フラックスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元530年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前224年と表記されるのが一般的となった。

紀元前248年

紀元前248年は、ローマ暦の年である。

当時は、「ガイウス・アウレリウス・コッタとプブリウス・セルウィリウス・ゲミヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元506年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前247年と表記されるのが一般的となった。

紀元前252年

紀元前252年は、ローマ暦の年である。

当時は、「ガイウス・アウレリウス・コッタとプブリウス・セルウィリウス・ゲミヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元502年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前252年と表記されるのが一般的となった。

紀元前267年

紀元前267年は、ローマ暦の年である。

当時は、「マルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・ユリウス・リボが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元487年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前267年と表記されるのが一般的となった。

紀元前274年

紀元前274年は、ローマ暦の年である。

当時は、「マニウス・クリウス・デンタトゥスとセルウィウス・コルネリウス・メレンダが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元480年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前274年と表記されるのが一般的となった。

紀元前276年

紀元前276年は、ローマ暦の年である。

当時は、「クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲス と ガイウス・ゲヌキウス・クレプシナ が共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元478年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世初期以降、この年は紀元前276年と表記されるのが一般的となった。

紀元前288年

紀元前288年は、ローマ暦の年である。

当時は、「クィントゥス・マルキウス・トレムルスとプブリウス・コルネリウス・アルウィナが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元466年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前288年と表記されるのが一般的となった。

紀元前292年

紀元前292年は、ローマ暦の年である。

当時は、「クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲスとデキムス・ユニウス・ブルトゥス・スカエウァが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元462年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前292年と表記されるのが一般的となった。

紀元前293年

紀元前293年は、ローマ暦の年である。

当時は、「ルキウス・パピリウス・クルソルとスプリウス・ カルウィリウス・マクシムスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元461年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前293年と表記されるのが一般的となった。

胡亥

胡亥(こがい、拼音:Húhài)は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称される。姓は嬴(えい)。始皇帝の末子。

紀元前3世紀の十年紀と各年
世紀千年紀

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