紀元前11世紀

紀元前11世紀(きげんぜんじゅういちせいき)は、西暦による紀元前1100年から紀元前1001年までの100年間を指す世紀

千年紀: 紀元前2千年紀
世紀: 前12世紀 - 紀元前11世紀 - 前10世紀
FengShen
殷周革命。殷は西方から興った周に滅ぼされた。これは典型的な易姓革命として後世に語り継がれている。画像は代の小説『封神演義』に描かれた挿絵で、右頁の二人がの最後の王帝辛(紂王)妲己
Ahiram Sarcophagus 1
ビブロス王アヒラムの石棺サルコファガス)。紀元前1000年前後に作られたものでフェニキア文字による墓碑銘が刻まれている(ベイルート国立博物館蔵)。
Caillou Michaux CdM
バビロニアのクドゥル。カッシート時代後期からバビロニアではクドゥルと呼ばれる境界石が作られるようになる。画像はこの世紀に作られたパリのフランス国立図書館メダル陳列室(コイン・メダル博物館)所蔵の「ミショー・ストーン」。

できごと

紀元前1100年代

紀元前1090年代

  • 紀元前1098年 - エジプト王ラムセス11世が即位( - 紀元前1070年)。
    • この時期に木材獲得のためビブロスに派遣されたエジプト人が記録したのが「ウェンアメン旅行記」。

紀元前1080年代

紀元前1070年代

  • 紀元前1077年 - アッシリア王ティグラト・ピレセル1世が暗殺される。
    • この後、アッシリアの国力は低迷し、アラム人の侵入にも悩まされる。
  • 紀元前1070年頃 - エジプトで第20王朝の終わり。第3中間期が始まる。
    • 下エジプトではタニス第21王朝が、上エジプトではテーベアメン大司祭国家が成立。
    • 第3中間期の混乱のため歴代ファラオの遺体は神官団の指揮でこの時期デル・エル・バハリの墳墓に移送された。

紀元前1060年代

  • 紀元前1068年頃 - 伝承ではアテナイ王コドロスがドーリア人の侵入で殺害されアテナイで王制が廃絶。
    • コドロスの息子メドンはアテナイ最初のアルコンに選出される。

紀元前1050年代

紀元前1040年代

  • 紀元前1046年 - 武王牧野の戦いを滅ぼしを興す(殷周革命)。
  • 紀元前1045年 - 魯、燕、衛、晋、曹、蔡、呉、陳、宋、斉、楚の諸侯が成立。
  • 紀元前1040年頃 - 「イオニア人の移動」。
    • 伝承ではアテナイ王コドロスの子ネイレウスおよびアンドロクロスがイオニアの植民市を建設。

紀元前1020年代

  • 紀元前1025年頃
    • シンパル・シパクがバビロン第5王朝(海の国第2王朝)を建てる。
  • 紀元前1021年頃
    • サウルがイスラエル王国の王に選ばれる。
    • 周の武王死去。息子の成王が即位し叔父の周公旦らが補佐する(成康の治)。
      • 周公旦に対立する三監(管叔鮮蔡叔度霍叔処)が殷の紂王の子禄父(武庚)を擁して反乱を起こすが鎮圧される(三監の乱・禄父の乱)。
      • 三監の乱の後、殷の故地は東西に分断され、西側(衛)を周公旦の弟康叔に、東側(宋)を殷の紂王の庶兄微子啓に支配させる。
      • 成王の時代に造られた「何尊(宝鶏市博物館蔵)」には「中国」の名が含まれた最古の銘文が刻まれている。

紀元前1000年代

大盂鼎 Da Yu ding
大盂鼎
  • 紀元前1004年頃 - バビロン第5王朝からバビロン第6王朝(バズ王朝)に交代。
  • 紀元前1002年頃 - 周の成王死去。息子の康王が即位。

人物

フィクションのできごと

  • タイムロードの再生の謎を暴こうとしたターローら囚人が無限に再生させられる。(ドラマ『ドクター・フー』)

脚注

注釈

出典

関連項目

アラム人

アラム人(英:Aramaeans)とは、古代オリエントの遊牧民。隊商貿易で活躍した。

イスラエル王国

イスラエル王国

מַמְלֶכֶת יִשְׂרָאֵל

分裂前のイスラエル王国

イスラエル王国(イスラエルおうこく、ヘブライ語: מַמְלֶכֶת יִשְׂרָאֵל‎)は、紀元前11世紀から紀元前8世紀まで古代イスラエルに存在したユダヤ人の国家。「イスラエル」という国名は、ユダヤ民族の伝説的な始祖ヤコブが神に与えられた名前にちなんでいる。

キュプロ・ミノア文字

キュプロ・ミノア文字(キュプロ・ミノアもじ、別名CMもしくはLinear C)は青銅器時代後期、ミノア文明時代のキプロスで(紀元前15世紀から12世紀ごろ、すなわち紀元前1500年-1150年に)使われた音節文字である。銘文の痕跡は年代によって4群に分類され、並べられている:

Archaic CM。23の記号。

CM 1。745の記号、85の標準的な文字。

CM 2。1310の記号、59の標準的な文字。紀元前13世紀と12世紀。

CM 3。219の記号、44の標準的な文字。Archaic CMは、ミノア時代のクレタ島で使われ紀元前11世紀ごろ(ギリシア暗黒時代)から鉄器時代のキュプロス文字に進化した文字である線文字Aと深く関係している。

銘文のコーパスは以下のように分類される。

商取引に関する文章

供物の銘文

エンコミとキチオンから発掘された粘土球に書かれた短い銘

コス島

コス島(Κώς / Kos)は、エーゲ海南東部、ドデカネス諸島にあるギリシャ領の島。

サムエル

サムエルは、旧約聖書の『サムエル記』に登場するユダヤの預言者、士師(民族指導者)。名前の語義はヘブライ語で「彼の名は神」。実在の人物である場合、紀元前11世紀の人。

北周

北周

西部が北周(周)の領域。北東部が北斉(斉)、中央が後梁(梁)、南東部が陳。

北周(ほくしゅう、拼音: Bĕizhōu、556年 - 581年)は、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国。国号は単に周であるが、紀元前11世紀から紀元前3世紀まで続いた周を始めとする同名の王朝と区別するために北周と呼ぶ。

君主の称号としては当初、秦以来の中国の歴代王朝が称していた「皇帝」号をやめ、「天王」を採用している。

呂尚

呂尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖。

姓は姜、氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。

太伯・虞仲

太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。

太伯は長男で、呉(句呉)の祖とされる人物。泰伯とも。

虞仲は次男。仲雍、呉仲とも。

妲己

妲己(だっき、ピン音:Dájǐ)は、殷王朝末期(紀元前11世紀ごろ)の帝辛(紂王)の妃。帝辛に寵愛され、末喜などと共に悪女の代名詞的存在として扱われる。

斉 (春秋)

斉(せい、Qí、紀元前1046年 - 紀元前386年)は、周代、春秋時代、戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した国(諸侯)。周建国の功臣太公望によって立てられた国である。姓は姜、氏は呂であるため、戦国時代の斉(媯斉・田斉)などと区別して姜斉または呂斉とも呼ばれる。紀元前386年に有力大夫の田和によって乗っ取られ、姜斉はこの時点で滅ぼされた。首都は臨淄。

晋 (春秋)

晋(しん、紀元前11世紀 - 紀元前376年)は、現在の中国山西省に西周代、春秋時代にわたって存在した国家である。始めは唐と呼ばれていたが、後に晋と改める。国姓は姫である。首府は翼、後に曲沃の分家が翼の宗家に取って代わった際に名を改め、絳と呼ばれるようになった。

楚 (春秋)

楚(そ、紀元前11世紀 - 前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。

殷(いん、拼音: Yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、古代中国の王朝である。文献には天乙(湯)が夏を滅ぼして建立したとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。殷代、商(しょう、拼音: Shāng)、商朝、殷商とも呼ばれる。紀元前11世紀に帝辛(紂王)の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。

紀元前2千年紀

紀元前2千年紀(きげんぜんにせんねんき)は、西暦による紀元前2000年から紀元前1001年までを指す千年紀(ミレニアム)である。現在からおよそ3000年〜4000年前に当たる。

蔡(さい、拼音: Cài)、紀元前11世紀 - 紀元前447年)は周代に中国に存在した侯国。国姓は姫姓。首都は上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県の南西)にあり、そこを中心として現在の河南省上蔡県一帯を領土とした。後、首都を新蔡(現在の河南省駐馬店市新蔡県)に遷した。周の武王が実弟・蔡叔度を侯爵に封じたのが始まり。紀元前531年楚に攻められて新蔡を追われ、首都を下蔡(現在の安徽省淮南市鳳台県)に遷したが、のち楚の恵王に滅ぼされた。

衛(えい、紀元前11世紀 - 紀元前209年)は、中国の周代・春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国。

衛の始祖は周の文王の九男の康叔である。三兄の管叔鮮等が殷より周を攻め、四兄の周公旦が乱を鎮めた後に、康叔は周より衛君に封じられ、二分された殷の遺民の一方を民とし朝歌を都とした。

第8代頃侯の時、多くの財物を周王朝に献上したことから侯爵に叙された。第10代武公の時には、周の幽王が犬戎に殺されると、兵を率いて犬戎討伐に駆けつけ、その功により周王室から公爵に叙された。

その領土は狭いとはいえ、黄河流域の中原の中心地であり、先進地帯であった。しかしそのため、衛は周辺諸国との折衝に忙殺されることになる。紀元前660年には狄により滅ぼされるが、斉の桓公の助力により国を復活した。のちには亡命時代の晋の文公を冷遇して他国へ移らせ、孔子を迎え入れた時にも冷遇して他国へ追いやるなど、優秀な人材が滞在してもすぐに出国してしまう状況であった。また、公族の一人であった商鞅は魏を経て秦に仕えて活躍している。

戦国時代には韓・魏の半属国状態となり、紀元前240年には秦に事実上滅ぼされるものの、名目的には細々と続き、最終的には最後の君主・衛君角が紀元前209年に秦の二世皇帝(胡亥)に廃されることによって滅んだ。

遷都

遷都(せんと)は、都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い(cf. #還都の一覧)、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられることもある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。

陳 (春秋)

陳(ちん、紀元前11世紀 - 紀元前478年)は、周代の諸侯国のひとつ。国姓は媯。

周の武王が舜の子孫を捜索して媯満を見出し、これを陳(現代の河南省周口市淮陽区)に封じたのが国の始まりとされる。陳は小国の地位を脱することができず、南方で楚が台頭すると、これに従属するようになった。春秋時代には晋・楚の二大国の争いに翻弄され、さらには呉の台頭によって圧迫を受けた。紀元前478年に陳は楚の恵王によって滅ぼされた。

余談となるが、話はさかのぼって紀元前672年に陳の利公の子の陳完が斉に亡命した。後にこの陳完の子孫が田氏を名乗るようになった。田氏は斉国内で大きな勢力を持つにいたり、紀元前386年には公室を簒奪して斉の君主となった。

魯(ろ)は、中国の国名・地名。地名としての魯は現在の中国山東省南部を指す。山東省全体の略称(雅名)としても用いられる。

諸侯国としての魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、中国大陸に周代、春秋時代、戦国時代に亘って存在した国である。代々の魯公(魯の君主)の爵位は侯爵であり、姓は姫(き)である。首府は曲阜。

周公旦(周王朝の開祖である武王の弟で、武王の子成王を補佐した)の子伯禽が成王によって封ぜられて成立した。

春秋時代に入ってからは、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となる。しかも、国内では、魯の公族である三桓氏が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱した。

しかしながら、この混乱した小国が思想史・文化史に果たした役割は大きい。周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、魯の出身である孔子であり、その一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化というものがあったからともいえる。ちなみに孔子が魯に仕えていたのは若年時までと晩年のみで、各国に弟子と共に放浪していた時期も長かった。なお、「春秋」は、隠公元年(紀元前722年)から、哀公14年(紀元前481年)までの魯国の年次記録が基になっている。

孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上として三桓氏に分割されてしまう。魯公室は細々と生き残るが、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。

世紀千年紀

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