植民地

植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府支配下にある領土のことで統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。

古代史にはフェニキア古代ギリシアにも見られるが多くは植民元との関係は維持しつつ独立した体制となっており、侵略によって獲得した海外領土の類型は古代ローマに見られる。近年はヴェネチアなどが行った東地中海における植民地経営をそれ以降の植民地支配と連続した流れと考える向きもある。

以下では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。

また、植民地に対して従属させて、それらを所有している本国のことは「宗主国」と呼ばれる。

総論

語源

英語の「colony」の語幹「col-」はラテン語「colere」に由来し「耕す」意。cult-も同意でculturで「耕作」「教養」。

日本での植民・移民の研究は明治中後期の頃であり1898年(明治31年)には木村亮吉により『於東洋英国植民政策』(ヂヨゼフ・ジヱレイベール fr:Joseph Chailley著)が翻訳出版されている。但し「西欧列強による有色人種奴隷化」については近代以前から認知されており、豊臣秀吉の時代にすでにポルトガル人による奴隷売買が知られており、バテレン追放令の原因のひとつに挙げられることがある。幕末においてもアヘン戦争敗北による中国人の奴隷化が知られていた。明治政府は開国以来、外国人の関係する「人権問題」に否応なく巻き込まれるようになった[1]

概要

古代にも植民地はある[2]が、「植民地」の規模をそれまでにないほど拡大したのは近代西欧諸国の産業資本主義の資源収奪要請によってである。

初期にはポルトガル海上帝国スペイン帝国オランダ海上帝国が、19世紀から20世紀にかけてはフランス植民地帝国イギリス帝国が、植民地交易によって多大な利益を上げた。沼沢地や無寥地を干拓・開拓し耕作地に変えるために住民を募集し開拓することは本来の意味での植民あるいは移民であり、現代の通例ではこのような観点から植民地が話題になることは少ない。焦点となるのは従来の土地占有者(原住民)への迫害や土地簒奪、先住民の奴隷化や略奪的経営、それにともなう暴力行為や財産権の侵害行為である。あるいは現代的な観点による民族自決における名誉の観点である。

一般に帝国主義先進国が植民地を原料工場・市場として経営するとともに、住民を政治・文化・言語的に抑圧支配する。植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、その全殺戮にいたることもある。スペインによるアメリカ大陸の植民地化イギリスによるアメリカ大陸の植民地化の過程ではしばしば現地住民が激減し、フランスもカリブ海西インド諸島のマルティニーク島の原住民を1658年に殲滅し、純粋な島民は絶滅した[3]。南太平洋の島嶼部では労働者として現地住民を雇用しても成功しないというのが定説であった。白人と接触以降に現地人人口が激減することも多く(ハワイやフィジー、サモアなど)、他の領土から労働者を移住させざるをえない状況がしばしば発生した[4]

現地住民との混血や本国国籍人の現地での浮浪化などは、しばしば民政や法的な問題を発生させた。アヘン覚醒剤ビジネスは植民地経済に根付くことが多かった。

平和的プロセスによって植民地が獲得される場合もあるが、いずれにせよなんらかの形で獲得したあとは、その植民地を統治・経営(植民地経営)することになる。その過程を植民地化という。

1804年、フランス革命に触発されたハイチが非白人国家としては近代史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる[5]。こうした一連の過程を脱植民地化という。

統治形態

植民地の統治形態には、以下のものがある。

  1. 領事裁判権租借地租界設定条約による治外法権の確立。
  2. 外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領
  3. 現地の王侯や部族長を通じて支配する間接統治
  4. 本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治
  5. 本国が外交防衛のみを担当し内政は現地住民によって民選された政府・議会に委ねる自治植民地。ただし「自治」とはいっても、参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されることが多い。
  6. 自国領への併合(この場合も従来の現地住民について、市民権や国籍上の地位に区別が設定されたり、併合領土での立法・行政権など統治形態が異なることがある)

一般的に植民地統治が継続する中で1.あるいは2.から4.までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語文化、民族意識を喪失していく傾向にある。

植民地における主権は領有国が有するが、領有国の主権がより限定された租借地租界のまま統治が継続されるケースもある。また、特殊な形態として保護国、複数国による共同統治領、国連の委任統治領信託統治領などがある。

土地政策

主権のある未文明国に関しては共有、行政占領、租借、割譲という概念で領土獲得を行い、そうでない場合はもっとも露骨な領土獲得の根拠として「無主物先占」の法理が利用された[6]

差別・分離政策

帝国主義の時代、植民地では本国とは異なった法律が施行、あるいは便宜の規定のみが施行され、先住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは異なる法的身分に編入され、権利義務について不平等な取扱がなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。

Colonization 1945
1945年時点の植民地
Colonisation2
日清戦争が始まる以前、1885年時点の植民地

植民地出身者の処遇

ただし、植民地人が本国人と同様の公職に就くことが必ずしも不可能であったわけではなく、官公庁や軍隊において高官に登用され、あるいは本国議会に選出される例もあった。このような傾向は、同化主義を建前とする日本フランスの植民地に特に強かった。イギリスの海外領土アメリカ合衆国の海外領土の住民には現在も本国の公職(大統領、国会議員)選挙への投票が認められていない。海外領土出身であっても本国に移住すれば可能である。これに対しフランスの海外県の住民はフランス内地の県の住民と同様に公職選挙への参加が可能である。これは、自治主義、分離主義と同化主義、内地延長主義という植民地統治思想の違いのなごりと見ることができる。

立法

立法権は本国政府が任命した総督等の行政長官が掌握することが多かった。多くの場合、植民地の議会は設置されても諮問機関にとどまり、立法権が与えられたとしても、総督等の拒否権が伴うのが通例であった。また、本国の法令の効果は原則的には植民地には及ばないこととされていることが多く、植民地に本国法を適用するためには、植民地政府が別途その旨の法令を制定する必要があった。

行政

行政職員にどの程度現地人を採用するかは植民地によって異なるが、官庁窓口の係員、下級警察官、教員など現地人と直に接する業務従事者には現地人が配置されることが多かった。これは現地語の理解や人員の確保などさまざまな要因があったと考えられるが、結果として現地人の敵意が直接宗主国に向かれるのを回避する効果が期待された。また、植民地人同士の対立を煽ることによって統治を円滑にすすめるため、宗主国に融和的な民族や部族の出身者を優先的に公務員に採用することも行われていた。

司法

多くの植民地では、政治的な理由などから、本国人と現地人に別個の法体系が適用されていた。

現存する植民地

現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、1960年の国際連合総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。現在でも領有国が公に植民地としている地域にケイマン諸島などがある。

逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、「西ドイツの植民地支配を受けている」と主張する人もいる。

類推

少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われているが、従来の植民地の定義は満たさない地域を、過去の歴史上の植民地との類推から「植民地」と呼ぶこともある。

ソ連ロシアのアジア地域や中華人民共和国チベット自治区新疆ウイグル自治区などはこのような文脈で植民地と言われることがある。このような地域を講学上内国植民地と呼ぶことがある。

明治時代における日本の沖縄琉球処分)や北海道(旧令制国)も講学上の内国植民地に相当する。

事実上の植民地

形式的には独立国として取り扱われていても、内政・軍事両面で外国の圧倒的な影響下に置かれている国家は植民地あるいは植民地同然と形容されることが多い。日本にとっての旧満州国(現在の中国東北部)や旧ソ連の衛星国(現在のモンゴル国東欧諸国)などがこの典型である。

植民地支配に対する評価

かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であったが、現代においては1960年国際連合総会で決議された植民地独立付与宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。

旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域にもたらした善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配の便宜を図るための共同体の解体や文化の破壊、言語の空白化を重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。

各論

ヨーロッパ諸国

マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブス大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。

スペインとポルトガル

Portugal Império total
ポルトガルが領有したことのある地域 - 1410-1999
Spanish Empire-World Map
スペインが領有したことのある地域

ポルトガルスペインイベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米メキシコ南米ペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。

ポルトガル海上帝国スペイン帝国の領域を分別したのは、1494年ローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年サラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。

ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルブラジルを発見。1511年マラッカの領有後はマカオ長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本キリスト教布教にも成功した。しかしながら、1580年アヴィス家が断絶するとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王となり、事実上スペインの支配下に置かれた。17世紀に入り、1640年には独立を回復するも(ポルトガル王政復古戦争)、アジアで新しく参入したオランダイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。その後、ナポレオン戦争に際してブラジル植民地ブラジル帝国として植民地から離脱、さらに、第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。1999年にはマカオ中華人民共和国に返還している。

スペインは1521年コルテスによるアステカ帝国征服、1533年ピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが(上記のとおり、1580年から1640年にかけては、ポルトガル及びその植民地すらスペイン王の支配下にあった)、イギリス帝国の勃興や王朝交代によりその支配力は弱体化した。1810年に至り現地生まれのクリオーリョは、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じて、植民地当局に対して独立を試み、その後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海キューバプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。現在、アフリカ大陸にセウタ及びメリリャを有しているが、自治権や国政参加権は本土と対等であり、スペイン政府は、植民地ではなく飛地領と位置づけている。

British Empire 1921
1921年時点のイギリスの植民地

イギリス

イギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後は大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸へ進出し、17世紀から18世紀にかけてニューイングランド植民地(13植民地)を形成、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社インドの諸勢力を巧みに操ってインドを征服。七年戦争ではフランスと争い、その結果イギリスはカナダを獲得、インドからはフランス勢力をほとんど駆逐した。

やがて19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは、世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することとなり、東南アジアビルマ海峡植民地(後のマレーシア)、中国香港、流刑植民地として出発したオーストラリアニュージーランドアフリカではナイジェリア、南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)、南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後、民族自決の波に乗って次々に独立していった。また、1997年には香港中華人民共和国に返還している(一国二制度参照)。

ただし、現在でもケイマン諸島ヴァージン諸島バミューダ諸島などのカリブ海大西洋の島々、フォークランド諸島ジブラルタルなどを海外領土として保有している。

フランス

131Etendue de l'Empire Français
フランスの植民地帝国。第1次(緑)と第2次(紺)

フランスは当初、カナダケベックカリブ海マルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。西アフリカセネガルも古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアタヒチニューカレドニアなどの植民地化に成功した。これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なおタヒチでは、1990年代フランス政府の核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のジャック・シラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を実行、現在も独立闘争が続いている。

オランダ

NetherlandsEmpire
オランダの植民地(17世紀から20世紀までを重ね合わせたもの)

オランダ17世紀から18世紀にかけて帝国主義的な植民地大国としてオランダ海上帝国と呼ばれる。特に17世紀前半はオランダの黄金時代であった。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印インドネシア)や南アメリカの植民地(スリナム)を支配していた。しかし度重なる英蘭戦争北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長したイギリス帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は凋落して行った。

20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海キュラソーアルバの二つの海外領土を持っている。

ロシア(ソビエト社会主義共和国連邦)

The Russian Empire-en
ロシアの植民地及び影響下にあった地域

ロシア帝国16世紀モスクワ大公国キプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと征服をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ征服した。シベリアの遊牧民を支配下に組み込み勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がるとぶつかり、ネルチンスク条約キャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争アロー号事件に乗じ、満州アムール川以北と沿海州外満州)を次々に併合、植民地化した。

東方の併合が一段落すると、続いて中央アジアを武力併合、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争第一次世界大戦によって日本ドイツなどと衝突し合ったが、第一次大戦中に共産主義信奉者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅亡した。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年にはバルト三国を、併合した。

また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義国も、名目上独立国であるが、衛星国と呼ばれ、植民地的な側面も見られる。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国エストニアラトビアリトアニア)を除く旧ソ連構成国は独立国家共同体(CIS)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。

その他のヨーロッパ諸国

Deutsche Kolonien
青:ドイツの海外領土
赤:プロイセン時代の海外領土
Italian empire 1940
イタリアの植民地
Belgian colonial empire
ベルギーの植民地

アジア諸国

日本

Empire of Japan 1932
1932年当時の大日本帝国の領土、及び影響地域
EmpireOfJapan0
大日本帝国の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2’. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島

日本の植民地としては、「外地」と称された諸地域がこれに該当する。

これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかったが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていた。さらに、日本の影響下にあった満州国(1932年建国)も、事実上の植民地に相当する。

ただし、南樺太に関しては統治の初期より準内地的扱いがされ、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われている。さらに1943年4月には完全に内地に編入された。

なお、内地の沖縄大東諸島尖閣諸島を含む)、奄美群島北海道東北地方小笠原諸島も植民地として捉えるべきという意見もあるほか、日本の近代化について日本国家が日本社会を植民地化していった過程である(自己植民地化論)と捉える観点も存在する。

美濃部達吉1923年大正12年)の『憲法撮要』にて、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べている。

水野直樹[8]は、日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在していたことを指摘している。

法令による規定では

  1. 内地では帝国議会が法律を制定した(事実上)のに対し、外地では形式的には行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと[9]
  2. 外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと
  3. 樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えられなかったこと

など、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、アカデミズムの世界ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されることが多い。

また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年(昭和7年)に建国された満洲国(満洲国については、準外地と呼ぶことがある)や、大東亜共栄圏構想の下に起こした太平洋戦争の間に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピンベトナムラオスビルマカンボジア)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦汪兆銘政権など)を名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡性から、第二次世界大戦中においては日本の植民地同然だったとする見解もある。

比較法学の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。1831年のベルギー憲法、1848年のプロイセン憲法、1871年のドイツ帝国憲法のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や地政学的特性に着目する。西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された(外地)という枠組みが形成されるにいたった。19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「外地」(overseas territories)という領土を作り出したとする[10]

明治憲法(大日本帝国憲法)の形質の観点では、明治憲法に領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案においては領土は自明のものであり、また「国体」に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた[11]

いくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。

  • 1898年、時の明治天皇による明治31年勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている[12]
  • 1932年9月3日に、時の昭和天皇が公布した「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている[13]
  • 1930年、昭和5年条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている[14]

また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。

植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学等の社会科学におけるに講学上のテクニカルタームにすぎない[15]外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は明治期からすでに存在しており、いわゆる忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」[16]ことが事実上の慣例となっていた。

1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。

小熊英二、『<日本人>の境界』新曜社 第5章 p142–143, ISBN 4-7885-0648-3. 1998年刊

我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ。 但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。 我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、 「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は 大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。 併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。

矢内原忠雄『植民及植民政策』 有斐閣 1926年刊

中華人民共和国

中華人民共和国チベット西蔵自治区青海省など)や内モンゴル内蒙古自治区)、東トルキスタン新疆ウイグル自治区)、満洲遼寧省吉林省黒竜江省の3省と、内蒙古自治区の東部など)などの主権を中華民国から継承したものとし、これらの地域は「もともとの中国の不可分の領土」であるとして、併合していった。現在のこれらの地域は、法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であるとされており、またこれらの土地のほとんどの民族は中華民族に包摂されると定義されているため、形式上では植民地とは言えない。国際連合非自治地域リストに上記地域は含まれない。

中華人民共和国において中国共産党による事実上の一党独裁政治による宗教思想の統制はこれらの地域に限定したことではないが、中国の少数民族の伝統的な文化・宗教・思想が取り締まりの対象となる際、民族文化への弾圧と捉えられる向きがある。

以上のような視点をもとにして、東トルキスタン亡命政府チベット亡命政府内モンゴル人民党などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を使用することが多い。

朝鮮半島朝鮮史中国中国史の一部、あるいは従属地域・従属国と見なす研究や記述が存在し[17][18]学生向け教科書にも同様の記述がみられる [19]。とくに高句麗史の帰属をめぐり韓国朝鮮と中国の間には論争が生じている。

オマーン

オマーンは17世紀から19世紀半ばにかけて西インド洋において海洋帝国を構築し、同沿岸のザンジバル(現タンザニア領)、モンバサ(現ケニア領)、モガディシュ(現ソマリア領)、パキスタン沿岸のグワーダルなどを保有した。

イスラエル

イスラエルは宗主国無き植民地とも言える国家である(エドワード・サイードなど。反論もある)。第一次世界大戦オスマン帝国が敗北すると、中東アラブ地域は新たにイギリスフランスの植民地となり、ユダヤ人が約束の地と崇めるパレスチナ委任統治領としてイギリスの管理下におかれ、ヨーロッパアメリカ合衆国からユダヤ人が入植した。ポグロムから逃れてきた人も多かった。しかし、時の弁務官の方針により、ユダヤ人移民の数はおおむね制限されており、ユダヤ人人口が減少に転じた時期もあった。入植者が増大したのは、第二次世界大戦前後の混乱期である。

アメリカのユダヤ人はすでに都市部で富裕層となっており、入植を斡旋したり、入植者に資金面での援助を行ってきた。ナチス・ドイツ時代や、第二次世界大戦後にはさらに入植者が増えた。そのため、ユダヤ人とアラブ人との間で軋轢が多くなり、国家像としては連合国家案より分割案が有効とみなされるようになり、国際連合の決議に基づき、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割することとなった。しかし、決着は得られず、中東戦争の勃発、イスラエルの独立に至った。4度の戦争を経ても双方の言い分は平行線をたどる。

また、冷戦終結とソビエト連邦の崩壊によって再びユダヤ人の入植が増えている。特にこれらのユダヤ人は、第三次中東戦争でイスラエルが獲得したヨルダン川西岸地区などに国軍のアラブ人強制排除とともに入植をおこない、パレスチナ問題を深刻化させている。

アメリカ合衆国

イギリスから独立した元13植民地の連合体として出発したアメリカ合衆国は、その後もイギリス、フランススペインメキシコから植民地や領土を武力併合または買収して、自国の領土を西へと拡大した。拡大する過程で新たにを新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、北部のアラスカをロシアから買収(アラスカ州)、ハワイを併合し(ハワイ州)、その後それぞれ州に昇格させ自国領土内に完全に併合する。さらに米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったカリブ海キューバプエルトリコ東南アジアフィリピングアムを植民地化した。もっとも、キューバは早期に独立させたが、その後もキューバ革命までの長期に渡り影響下に置いた。

アメリカは建国の成り立ちからして、個人の財産的自由権を重視したが白人植民者の子孫からなるアメリカ合衆国議会インディアン黒人奴隷に対してその主権を認めることはなかった[20][21]フロンティアへの進出に際して先住民と条約を結び、先住民の一定の主権を認めていたが、合衆国や州政府、入植者たちはたびたび条約を無視したり、先住民に権利の放棄を強要した。北西部領土西南部領土あるいは西海岸に移動した白人開拓者は1763年宣言などインディアン達との取り決めに違反していたにも拘らず、開拓者や商人らへの攻撃に対して合衆国陸軍は出動し、インディアン強制移住法はミシシッピ以東から先住民を駆逐するだけでなく、以西のフロンティアにおいても駆逐を続け、先住民は占有する土地を極めて小額の補償金と引き換えに合衆国政府に対して強制的に譲渡させられた。オレゴン・カントリーをめぐる交渉や米墨戦争による武力併合により合衆国政府は広大な土地を獲得し、これらの土地は入植者に対して無償ないしは非常に安い価格で売却された。1890年代のフロンティア消滅と時期を同じくして発生した米西戦争により領土はフィリピン、グァム、キューバへ拡大し、またハワイ入植者が起こしたクーデターに米国海兵隊が介入しハワイ王国を併合した。

「アメリカ人の生命及び財産の安全確保のため」議会に対して合衆国軍隊の介入を要請するという図式はアメリカ帝国主義拡大の基本的な構造であり、皇帝国王の名を必要としない19世紀型の帝国主義の典型となった。米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治経済的に影響下に置いたのちも、中米諸国はバナナ共和国と呼称され、アメリカ資本のユナイテッド・フルーツドール・フード・カンパニーなどの民間企業が資本主義の尖兵として掠奪経営や政治介入をおこなった。キューバなどカリブ諸島の親米政権に支援を行い、ドミニカグレナダパナマには公然と軍事介入した。中米プエルトリコは、現在も自治領として存続している。また北マリアナ諸島もアメリカの執政下にとどまっている。

新植民主義

開発援助において、古くは1960年代に英仏がアフリカの旧植民地に財政支援をおこない、「新植民地主義」と批判され取りやめたことがある[22]共産主義陣営(社会主義国、旧東側諸国)においては1960年代に世界で新植民主義が進展しているとの認識があり、中華人民共和国では、中国共産党が1963年9月に3回にわたりソ連共産党中央委員会を痛罵し10月22日付の批判ではソビエトを「新植民主義の弁護人」であると批判した。中国の理論家たちの見解によれば、「ソビエトによる社会主義世界体制は、世界の発展過程全体にますます決定的な影響を及ぼしていないばかりか、帝国主義に対する大衆の革命的闘争で独自の役割すら果たしていない」と非難した[23]

こういった大戦後に登場した旧宗主国や大国における新たな植民的支配(新植民主義)論とは別に、21世紀になり中国など新興国の台頭を背景とした国外への積極的な投資や開発援助が「新植民主義」と指摘されることがある。

中国の対アフリカ援助が「新植民主義」だとの批判が一部の先進国から浮上しており、一部のアフリカの国からも新植民地主義であるとの発言が出ている。援助受入れ国は中国政府を無視することができず、中国企業が地元の環境を破壊したり汚染を及ぼすことなどで現地住民の利益を侵害しているとの報道が行われたことがある[24]

マダガスカルでは韓国の民間企業がマダガスカル共和国の耕作可能地の約半分を99年間無償貸与される契約を結んだことから民衆騒動が発生し、当時のマーク・ラヴァルマナナマダガスカル大統領が退陣させられ契約が撤回される事態となった[25]

脚注

  1. ^ この例として、明治維新前年1867年にハワイ国総領事を名乗る男が幕府の免状を得、明治元年に日本人を移民させたことをめぐる問題(ハワイ日本人出稼人召還事件)、あるいは「苦力貿易(coolie trade)」と呼ばれる人身売買ケースにまつわる外国公使からの各種通報、1872年(明治5年)のマリア・ルス号事件などがある。「明治新政府と「人権問題」」山本忠士(日本大学大学院総合社会情報研究科紀要No.5,112-123(2004))[1]
  2. ^ 古代中国の朝鮮半島における楽浪郡漢四郡(それ以前の箕子朝鮮衛氏朝鮮を含めても考えることができる)の設置、ベトナムにおける日南郡交趾郡など南越九郡の設置も一種の植民活動である。
  3. ^ エメ・セゼール『帰郷ノート・植民地主義論』平凡社
  4. ^ 「カテゴリー化の困難-サモア植民地統治における混血の役割」山本真鳥(比較経済研究所小規模プロジェクト「植民地主義の再検討」2001年第3回研究会11月8日 法政大学学術機関リポジトリ)[]PDF-P.4
  5. ^ エリック・ウィリアムズジョン・ケネス・ガルブレイスの見解。また世界システム論世界経済の項目を参照。
  6. ^ 「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)PDF-P.3
  7. ^ [2]
  8. ^ 「日本は朝鮮半島を植民地支配し、何をしたのか-戦前」水野直樹[3]
  9. ^ 政務のすべては総督に委任の上、内閣総理大臣の監督を受け(台湾総督府官制3条)、あるいは内閣総理大臣を経て天皇に直接上奏すれば良い(朝鮮総督府官制3条)とされたが、実際の実務は拓務省内務省など内地行政機関の依命通牒(直接の権限はないが、上位職の指示命令により通知(アドバイス)する文書)に従うことが多かった。また総督府令により1年以下の懲役もしくは禁錮、拘留、200円以下の罰金または科料の罰を課すことが認められていた(台湾総督府官制5条、朝鮮4条)が、それ以上の罪過あるいは総督府令によらない法令については日本内地の制定法による必要があった。
  10. ^ 「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)[4]
  11. ^ 「憲法における領土」石村修(法制理論39pp158-185.2007-03.新潟大学法学会ISSN-0286-1577)[5][6]
  12. ^ アジア歴史資料センター  レファレンスコード A03020333600
  13. ^ アジア歴史資料センター  レファレンスコード A03021876600
  14. ^ アジア歴史資料センター  レファレンスコード A03021789000
  15. ^ 「植民地」なる用語への評価としてはたとえば『(植民地の)文字の我国で用ゐられ初めたのは、極めて最近の事で、明治以前の空気に多く包まれた人の頭には、植民地という文字が、非常にハイカラな文字になつて響いて居る。植民地がどうの、植民政策がどうの、拓殖局がどうのといつた所で、虻が鼻の頭を刺した程の感じもない。新領土といふ文字にせよ、其れは二十七八年、三十七八年に於ける、二大戦役の賜物で、此戦役以前、新領土といふ文字は、あまり繰り返されて居ない。何れにしても、植民地といふ文字は、現代人に未だ耳新しい文字である。先ず植民的知識をいへば、其れは北海道開拓の其れであつたらう。北海道開拓は、我日本国民に、植民の意味を、朧気ながらも、先づ放つた所の鐘の音であるのである』(「日本植民地要覧」全国新聞東京聯合社編 大正元年(1912年)10月)。
  16. ^ |矢内原忠雄『植民及植民政策』 有斐閣 1926年刊
  17. ^ たとえば米国コロンビア大学オンライン百科事典によれば、韓国古代史について韓国では壇君神話から紀元するものの、中国文献によれば商王朝難民により箕子朝鮮がB.C.1122年に平壌で建国されたのが始まりであるとし、あるいは衛氏朝鮮が朝鮮最初の国家であると解説する[7]
  18. ^ 韓国側文献として例えば『韓国史大事典』(柳洪列監修、1996年・高麗出版社刊、1819ページ)には、朝鮮王朝(李朝)と中国()の関係については「朝鮮」という国号を明に選んでもらったことを指摘した後、「従属の象徴として明の年号を使った」と説明する。また後のについても「宗主国」とし、日清戦争で清が日本に敗北した結果として「朝鮮が完全な独立国であることを確認するにいたり、政治的な従属関係はなくなった」と解説する。また日清戦争後、国号を朝鮮から「大韓帝国」に変えた経緯について「清の属国から脱して独立し帝国として発展するという意味」があったと説明する。李朝の前の高麗時代に中国を支配したとの関係では「属国」との表現はないが、高麗王が六代にわたって必ずモンゴルの王妃を迎えるという従属的な「ふま国」となり「自主性を失った」とする。
  19. ^ 韓国紙『朝鮮日報』によれば、「アメリカの世界史の教科書には中国と韓国の間の朝貢秩序を、韓国を中国の従属国と見なす内容があり、国教育開発院の李讃熙博士は『韓国の歴史を主体的に扱っておらず、中国、日本などの歴史叙述のために付随的に挿入されているケースが多い』」と指摘する(『朝鮮日報』2001年8月10日)
  20. ^ ジョン・ロスらの「チェロキー国への州法適用差し止め」訴訟と連邦議会への工作はジャクソン大統領による「大統領にインディアン強制移住の権限を与える法律」制定提案と圧倒的多数による可決をもって報いられた。また裁判所への提訴はチェロキーたちの提訴権の否定(門前払い)によって報いられた。黒人奴隷の裁判提訴権の否定についてはドレッド・スコット対サンフォード事件
  21. ^ 「奴隷解放論者」と「解放奴隷」によって進められた、アメリカ植民協会によるリベリア入植は実にアメリコ・ライベリアンらによる新たな植民地であった。赤狩りによって非合法化されるアメリカ共産党には黒人に主権をという主張もあった。ただし必ずしも黒人の支持があった訳でない。
  22. ^ 「開発援助の拡散・細分化と援助協調」木原隆司(財務省財務総合政策研究所研究部 PRI Discussion Paper2009.5)[8]PDF-P.34
  23. ^ 「中ソ論争の焦点1963-64」猪木正道(北海道大学スラヴ研究 1967年)[9][10]PDF-P.8
  24. ^ 趙長峰・薛亜梅「新形勢下中国対アフリカ援助探析」『社会主義研究』社会主義研究雑誌社、2010年第1期、P.141。直接は[11]PDF-P.29
  25. ^ 大韓民国の旧財閥系商社大宇ロジスティックスは、マダガスカル共和国の耕作可能面積250万ヘクタールの約半分に相当する130万ヘクタールもの広大な土地を99年間無料貸与する契約を当時のマーク・ラヴァルマナナ大統領政権と2008年11月に結んだ。大宇側は地元住民を雇って耕地開発し、トウモロコシパーム油を採取できるヤシを栽培し、主に韓国に輸出する計画を表明。今後25年間で60億ドル(約5700億円)のインフラ整備を行うとしていた。これに対し国連食糧農業機関 (FAO) は、生産国側の犠牲を伴う「ネオ・コロニアル(新植民地主義)」を生む懸念があると警告していた。2008年11月19日付 英フィナンシャル・タイムズ紙:食糧争奪で“新植民地主義”の懸念 韓国企業がマダガスカルの農地をリース。これを受け、マダガスカルでは2009年1月以降、「公金を無駄遣いしている」としてラヴァルマナナ大統領の退陣を求めるデモが繰り返され、135人以上が死亡する混乱が続き、2009年3月16日に軍が大統領府に突入、大統領を退陣に追い込んだ。マダガスカル軍は野党指導者ラジョエリナに全権を移譲し、マダガスカル憲法裁判所も3月18日追認。ラジョエリナは同日、大宇側との契約について「憲法では祖国の土地は売ることも貸すこともできない」と述べ、契約破棄を宣言した。3月21日、ラジョエリナ新大統領が就任した。大宇側は「政権が交代してもプロジェクトは継続したい」と話していた。2009年3月21日付『産經新聞』「韓国企業に農地の半分無料貸与 国民反発で大統領退陣 マダガスカル」。その後2009年7月、大宇ロジスティックスは資金難により、企業再生手続きに入った。大宇ロジスティックス 法廷管理申請 EBN 2009年7月4日(韓国語) 李明博大統領は2008年4月15日にも「ロシア極東地方の土地を30 - 50年間借り上げる」「長期間土地を賃借し現地生産すれば、北朝鮮の労働力も活用できる」という発言を行っている。2008年4月16日付 NIKKEI NET 李大統領「極東に食糧基地を」〜「ロシア沿海州30-50年を借り上げ、北朝鮮の労働力で現地生産」

文献情報

総論

  • 浅野豊美『帝国日本の植民地法制―法域統合と帝国秩序』(名古屋大学出版会、2008年、ISBN 4-815-80585-7)
  • 「帝國における植民地と本国」永渕康之、高木、平野、西川、石川、吉田(平成14-16年度科学研究費補助金基盤研究研究成果報告書)[12]
  • 「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)[13]
  • 「政治認識としての帝国主義論-ホブソンレーニンの帝国主義論の再検討1」中村研一(北大法学論集 1990-09-17)[14]
  • 「明治大正期の植民地思想形成への一試論 : ポール・ルロア=ボーリュー受容の諸相」柳瀬善治(三重大学日本語学文学2002-06-23)[15][16]
  • 「東アジアにおける「牛の皮一枚の土地」伝説の展開」斧原孝守(東洋史訪1997.0.31)[17][18]

土地制度など各論

  • 「マレイシア・サバ州における植民地時代の土地制度」都築一子(国際協力研究Vol.15 No.1(通巻29号)1999.4)[19]
  • 「法と植民地主義 ベトナムにおけるフランス近代法導入をめぐる一考察」高田洋子(敬愛大学国際研究第12号2003年11月)[20]
  • 「植民地支配の政治経済学 イギリスのエジプト統治1882-1914年」鹿島正裕(金沢法学1987-3-25)[21]
  • 「植民地支配の比較研究に向けて フランスのチュニジア支配イギリスのエジプト支配1881〜1914年」鹿島正裕(金沢法学1987-12-25)[22]
  • 「カテゴリー化の困難-サモア植民地統治における混血の役割」山本真鳥(比較経済研究所小規模プロジェクト「植民地主義の再検討」2001年第3回研究会11月8日 法政大学学術機関リポジトリ)[23]

関連項目

アイルランド

アイルランド

Éire(アイルランド語)Ireland(英語)

国の標語:Éire go deo(アイルランド語: アイルランドよ、永遠に)

国歌:Amhrán na bhFiann(アイルランド語)The Soldier’s Song(英語)兵士の歌

アイルランド、またはアイルランド共和国(アイルランドきょうわこく)は、北西ヨーロッパ、北大西洋のアイルランド島の大部分を領土とする立憲共和制国家。首都はダブリン。島の北東部はイギリスのカントリーの一つである北アイルランドと接している。

独立前より北アイルランドも自国の領土であると主張し、イギリスとの対立と抗争を繰り返してきたが、1998年のベルファスト合意により領有権を放棄した。

2005年、『エコノミスト』の調査では最も住みやすい国に選出されている。

アメリカ独立戦争

アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、英: American War of Independence)は、1775年4月19日から1783年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命(英: American Revolution)もしくは革命戦争(英: Revolutionary War)と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている。なお、日本の歴史教科書では、「アメリカ独立戦争」と表記することもあれば、単に「独立戦争」と表記することもある。

この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。

アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍とフランス王国発遣軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。

イギリス帝国

イギリス帝国

British Empire

国歌: 女王陛下万歳イギリス帝国統治下の経験を有する国・地域。現在のイギリスの海外領土は赤い下線が引いてある。

イギリス帝国(イギリスていこく、英語: British Empire)は、イギリスとその植民地・海外領土などの総称である。大英帝国(だいえいていこく)ともいう。

帝国は時代ごとの性質により、以下のように区分される。

アイルランドや北アメリカ大陸に入植し、北米植民地およびカリブ海植民地との貿易を中心にした時代

アメリカ独立からアジア・アフリカに転じて最盛期を築いた19世紀半ばまでの自由貿易時代

自由貿易を維持しつつもドイツ帝国など後発工業国の追い上げを受け植民地拡大を行った帝国主義時代

20世紀に入って各植民地が独自の外交権限を得たウェストミンスター憲章以後の時代一般に大英帝国とよばれるのは、特に3と4の時代である。1と2を「第1帝国」、3と4を「第2帝国」と呼び、後者の繁栄を象徴するものとしてはイースタン・テレグラフ・カンパニー(大東電信会社)の海底ケーブルが挙げられる。

1898年当時ハリファックスからネルソン (ニュージーランド) まで世界横断したC&Wのケーブルは、鉱産資源が産出するバルパライソ-ブエノスアイレス-モンテビデオ間、ケープタウン-ダーバン間、ムンバイ-チェンナイ間、ダーウィン (ノーザンテリトリー)-アデレード-シドニー間の4区間だけ陸上を通った。これらの鉱産資源は大英帝国の手中にあり、今日も英米系大企業が利権を維持している。

大英帝国は、その全盛期には全世界の陸地と人口の4分の1を版図に収めた史上最大の面積を誇った帝国である。唯一の超大国と呼べる地位にあり、第一次世界大戦終結から第二次世界大戦までの間は、アメリカ合衆国とともに超大国であった。第二次世界大戦後、イギリスは超大国の地位からは離れ、各植民地が独立させることでイギリス連邦を発足させた。

イギリス帝国の終期は諸説あるが、早いものでは第一次世界大戦後のアメリカ合衆国の台頭や、ウェストミンスター憲章制定を以て終わりとする説。遅いもので第二次世界大戦後の1947年に、最大の植民地であるイギリス領インド帝国がインドとパキスタンとして独立し、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドのアングロサクソン移民地域も主権国家として独立した時期とする説などがある。

イギリス最後の植民地は香港であり、1997年の香港返還をもって一般的にイギリスではイギリス帝国の時代は終焉したとされている。

オランダ

オランダ

Nederland

国の標語:Je Maintiendrai(フランス語)Ik zal handhaven(オランダ語)(邦訳: 我、守り続けん)

国歌:Wilhelmus van Nassouwe(オランダ語)ヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエ

オランダ(オランダ語: Nederland [ˈneːdə(r)lɑnt]、[ˈneɪ̯də(r)lɑnt] ( 音声ファイル); 西フリジア語: Nederlân; パピアメント語: Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。

カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。他、カリブ海に海外特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。

カナダ

カナダ

Canada

国の標語:A Mari Usque Ad Mare(ラテン語: 海から海へ)

国歌:O Canada(英語)Ô Canada(フランス語)

オー・カナダ

カナダ(英・仏: Canada、英語発音: [ˈkænədə] 聞く キャナダ、フランス語発音: [kanada] カナダ)は、北アメリカ大陸北部に位置し、10の州と3の準州を持つ連邦・立憲君主制国家。首都はオタワ(オンタリオ州)。

イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国のひとつ。アメリカ合衆国と国境を接する。国土面積は世界最大のロシアに次いで広い。

歴史的に先住民族が居住する中、外からやってきた英仏両国の植民地連合体として始まった。1763年からイギリス帝国に包括された。1867年の連邦化をきっかけに独立が進み、1931年ウエストミンスター憲章で承認され、1982年憲法制定をもって政体が安定した。一連の過程においてアメリカと政治・経済両面での関係が深まった。連邦制をとり、連邦政府の運営は首相を中心に行われている。

ドイツ帝国

ドイツ帝国

Deutsches Reich

国の標語: Gott mit Uns(ドイツ語 : 神は我らと共に)国歌: Heil dir im Siegerkranz(ドイツ語)(非公式)皇帝陛下万歳第一次世界大戦前の1914年のドイツ帝国の領域

ドイツ帝国(ドイツていこく、ドイツ語: Deutsches Kaiserreich)は、1871年1月18日から1918年11月9日まで存続した、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く連邦国家を指す歴史的名称である。帝政ドイツ(ていせいドイツ)とも呼ばれる。普仏戦争において、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式が行われて成立した。しかし第一次世界大戦の敗北とドイツ革命の勃発により、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命して崩壊した。

1850年以降、ドイツの各領邦国家は急速に工業化され、特に石炭、鉄(後に鋼鉄)、化学薬品、鉄道が強みとなり、1871年には約4100万人であった人口は1913年には約6800万人までに増加した。

建国からドイツ革命によるヴァイマル共和政以降までの47年の間に、ドイツ帝国の産業、技術、科学は世界でもトップクラスとなり、当時世界の最も多くのノーベル賞を獲得し、ドイツ帝国は世界第二位の経済を築き上げた。

ベルリン会議を成功させるとドイツは植民地主義を掲げアフリカへ進出したが、これは同じくアフリカに植民地を所有していたイギリス、フランス第三共和国との対立を深めた。

ドイツ帝国は列強として認められ、発達した鉄道、世界随一の軍隊及び強大な工業力を所持し、アルフレート・フォン・ティルピッツの手によってイギリス海軍の6割の規模であり、世界第二位の海軍となったドイツ帝国海軍を有した。

ドイツ語

ドイツ語(ドイツご、独:Deutsch、deutsche Sprache)は、インド・ヨーロッパ語族・ゲルマン語派の西ゲルマン語群に属する言語である。

主にドイツ語アルファベットで綴られる。

話者人口は約1億3000万人、そのうち約1億人が第一言語としている。漢字では独逸語と書き、一般に独語あるいは独と略す。ISO 639による言語コードは2字が de、3字が deu である。

現在インターネットの使用人口の全体の約3パーセントがドイツ語であり、英語、中国語、スペイン語、日本語、ポルトガル語に次ぐ第6の言語である。ウェブページ数においては全サイトのうち約6パーセントがドイツ語のページであり、英語に次ぐ第2の言語である。EU圏内では、母語人口は域内最大(ヨーロッパ全土ではロシア語に次いで多い)であり、話者人口は、英語に次いで2番目に多い。

しかし、海岸線の少ないドイツ、オーストリアの植民地政策が長らく欧州内を中心に行われたこともあり、英語、フランス語、スペイン語のように世界語化はしておらず、基本的に同一民族による母語地域と、これに隣接した旧支配民族の使用地域がほとんどを占めている。上記の事情と、両国の大幅な領土縮小(かつてのドイツ人国家であった神聖ローマ帝国、ハプスブルク帝国などから独立して誕生した国も多い)も影響して、欧州に限っては非常に多くの国で母語使用されているのも特徴である。

ノースカロライナ州

ノースカロライナ州

State of North Carolina

州の愛称: タールのついた踵の州Tar Heel State

ノースカロライナ州(ノースカロライナしゅう、英: State of North Carolina)は、アメリカ合衆国の南東部に位置する州の1つである。2010年国勢調査による人口は9,535,483人だった。合衆国50州の中で、陸地面積では第28位、人口では第10位である。州都はローリー市で、最大都市はシャーロット市である。

州の北はバージニア州に、西はテネシー州に、南はジョージア州とサウスカロライナ州にそれぞれ接している。州の東側は大西洋に面している。州内には100の郡がある。元はタバコと家具の生産地として知られたが、過去50年間でバイオテクノロジーや金融分野など多様な経済に転換してきた。

州域の標高は大西洋岸の海面から、アメリカ合衆国東部では最高地点である標高6,684フィート (2,037 m) まで変化が激しい。海岸平原の気候は大西洋に強く影響されている。州の大半は温暖湿潤気候帯に入っている。西部の海岸から300マイル (480 km) 以上入った山岳地では亜熱帯山岳気候になる。

フィリピン

フィリピン共和国

Republika ng Pilipinas(タガログ語)Republic of the Philippines(英語)

República de Filipinas(スペイン語)

国の標語:Maka-Diyos, Maka-Tao, Makakalikasan at Makabansa(タガログ語: 神、国民、自然、国への愛情のために)

国歌:Lupang Hinirang(タガログ語)最愛の地

フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく、タガログ語: Republika ng Pilipinas、英: Republic of the Philippines、西: República de Filipinas)通称フィリピンは、東南アジアに位置する立憲共和制国家。首都はマニラで、最大の都市はケソンである。

7000以上の島を領有する島国であり、フィリピン海を挟んで日本とパラオ、ルソン海峡を挟んで台湾、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んで中国およびベトナムと対する。

フィリピンの東にはフィリピン海、西には南シナ海、南にはセレベス海が広がる。

国名のフィリピンは16世紀の旧宗主国のスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世国王)からちなんでいる。

フランス

フランス共和国

République française

国の標語:Liberté, Égalité, Fraternité(フランス語: 自由、平等、友愛)

国歌:La Marseillaise(フランス語)マルセイユの歌

この表のデータは本土のみで、海外県・属領を含まない。

フランス共和国(フランスきょうわこく、フランス語: République française)、通称フランスは、西ヨーロッパの領土ならびに複数の海外地域および領土からなる、共和制の、単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。

ポルトガル

ポルトガル共和国

República Portuguesa

国の標語:なし

国歌:A Portuguesa(ポルトガル語)ポルトガルの歌

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。首都はリスボン。

北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。

ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。

マサチューセッツ州

マサチューセッツ州

Commonwealth of Massachusetts

州の愛称: 入り江の州Bay State

マサチューセッツ州(英: Commonwealth of Massachusetts、 ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国の州であり、北東部ニューイングランド6州の1つでもある。独立13州の一つ。マサチューセッツ州は「州」(State) の代わりにコモンウェルスを使っているが、日本語では他州と同様に「州」と訳されている。2010年度の人口は 6,547,629 人。アメリカ合衆国の誕生から、政治・経済・商工業・文化・教育の中心地としてリーダーの役割を果たしてきた。名称は先住民のマサチューセッツ人に由来。

北アメリカ

北アメリカ(きたアメリカ、英: North America、西: América del Norte、仏: Amérique du Nord)は、アメリカ(米州)の北半の、北アメリカ大陸を中心とした地域である。六大州の1つ。漢字では北米(ほくべい)と表す。

太平洋戦争

太平洋戦争(たいへいようせんそう、英: Pacific War)は第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国やドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争における日対米局面を米国側から見た呼称である。日本側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされた。

日本軍のイギリス領マレー半島攻撃により始まり、その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。

東南アジア

東南アジア(とうなんアジア)は、中国より南、インドより東のアジア地域を指す。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。

海外領土・自治領の一覧

海外領土・自治領の一覧(かいがいりょうど・じちりょうのいちらん)は、世界に存在する「独立国家以外の地域」の一覧である。

第二次世界大戦

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、独: Zweiter Weltkrieg、伊: Seconda Guerra Mondiale、英: World War II、仏: Seconde Guerre mondiale、中: 第二次世界大战、露: Вторая мировая война、西: La segunda guerra mundial、亜: الحرب العالمية الثانية‎、略称:WWII)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、オランダ、フランス、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソビエト連邦によるポーランド侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの太平洋戦争開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の戦争となった。

枢軸国は1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。対する連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。ただし、すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。また、イタリアなど連合国に降伏したあとに、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国と呼ばれ、連合国の一員であるとはみなされなかった。枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはイギリス、ソビエト連邦、中華民国、アメリカ合衆国、フランスの5か国である。

第二次世界大戦の戦域を大別する際、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一部を含むものと、東アジア・東南アジアと太平洋・インド洋全域を含むものに分けられる。このうちドイツ、イタリアなどとイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いを欧州戦線、日本などとイギリス、中華民国、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダなどとの戦いを太平洋戦線と大別する。欧州戦線はイギリス、アメリカ、フランス、ブラジルなどが枢軸国と戦った西部戦線および北アフリカ戦線と、ソ連と枢軸国が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。太平洋戦線は太平洋戦争(大東亜戦争)と呼称され、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカなどが戦った太平洋戦域、オランダの植民地のインドネシアやイギリス領のマレー半島、フランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカなどが戦った南西太平洋戦域、ビルマやインド、セイロンやアフリカで日本がイギリス、アメリカなどと戦った東南アジア戦域、そして中国大陸で日本が中華民国とアメリカなどと戦った日中戦争に分けられる。しかし、これら以外にオーストラリアや中南米、カリブ海、東アフリカなどでも戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。

戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、投入が行われた。世界の61か国が参戦し、総計で約1億1,000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。

第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦であったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦とケーブル切断を主体に展開されたが、第二次世界大戦では無線通信を用いた機動戦の結果、戦線が拡大した。また、無線は電信と違い敵に傍受されたため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果がもたらされた。使用された兵器も、航空機や戦車などの著しい発達に加え、レーダーやジェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾つまり核兵器という大量殺戮兵器まで登場した。

総力戦も第一次世界大戦より徹底し、国民はただ単に戦争に反対しないという態度では許されず、戦争遂行に献身的な協力を要求され、非協力者への国家による制裁は厳しかった。この戦争では戦場と銃後の区別が取り払われ、人類史上初の原子爆弾投下を含め、民間人が住む都市への大規模な爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、多くの民間人や捕虜が命を失った。

またドイツは、自国および占領地においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的大量虐殺を戦争と並行して進め、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした要因による大戦中の民間人の死者は、総数約5,500万人の半分以上の約3,000万人に達した。また大戦直後には、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され、その途上で200万人が死亡している。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制移住が行われた。またアジア・太平洋では日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。

戦争中から連合国では、国際連合など戦後秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きくなった。この両国は戦後世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、その対立は長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。また、欧州の白人諸国家の統治下にあったアジア、アフリカの植民地では民族自決そして独立の機運が高まって多くの国々が独立し、結果として欧州列強の地位は著しく低下した。こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦中の対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。

英語

英語(えいご、English)は、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属していて、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。

西アフリカ

西アフリカ(にしアフリカ)は、アフリカの西部地域、具体的には、サハラ砂漠の南側で、かって西スーダンと呼ばれた地域と、中央スーダンの一部、大西洋、ギニア湾に面する「上ギニア」の国々が含まれる地域を指す。多くの西アフリカ諸国がその領域内にサヘル地域を擁する。アルジェリアなどマグリブ諸国は、歴史的・文化的に地中海世界やアラブ世界としての一体性が強く、通常は北アフリカとする。

西アフリカは、黒アフリカ史において最重要地域のひとつであり、アフリカ美術の起源でアフリカ鉄器時代のさきがけのひとつとなったノク文化が、ナイジェリア、ジョス高原において紀元前15世紀頃若しくはそれ以前から繁栄した。

8世紀以前からガーナ王国をはじめとしてマリ帝国、ソンガイ帝国など強力な王朝が、ニジェール川流域に16世紀まで次々と興亡を遂げた。これらの強力な王朝は、世界遺産にもなっているモーリタニアのシンゲッティ、ウアラタ、ティシット、ウアダンなどのオアシス都市とともに、金や岩塩の取引によって繁栄した。ギニア湾岸のベナン共和国は、ダホメ王国が繁栄した場所であり、ナイジェリアのベニン王国からその名前をとっている。また、1847年に建国されたリベリアが、西アフリカで最も古い独立国となる。

19世紀から20世紀にかけ、列強による世界規模の植民地化が加速するなか、西アフリカはイギリス、ドイツ、フランスなどの支配下に置かれた。北アフリカから侵攻したフランスは、黄金海岸などを除いた大半の西アフリカを植民地とした。その植民地政府も艀などを所有する海運アライアンスに運賃を搾取された。海底ケーブルにより機敏になったイギリスの不定期船が世界貨物容量の1/3を占めた1900年でさえ、海運アライアンスは西アフリカの権益を守った。

これらの地域は、第二次世界大戦後、1960年を中心として次々と独立していった。

西アフリカ地域では、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)を結成し、西アフリカ諸国が密接して経済発展に寄与する機関を設置している。

リベリアの内戦時、ECOWASは平和維持軍(ECOMOG)としてナイジェリアやガーナを始めとする西アフリカ諸国を中心にリベリアへ派兵し大きな役割を果たした。

乾燥地であるサヘルを抱えているため、しばしば旱魃や蝗害の被害が発生する。2004年にはサバクトビバッタの大量発生 (2004年)が生起した。

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