孔子

孔子(こうし、くじ、拼音: Kǒng zǐ : 공자gongja〉、: チベット文字ཁུང་ཙི།ワイリー方式kong rtse[コンツェ][1]紀元前552年9月28日紀元前479年3月9日)は、春秋時代中国思想家哲学者儒家の始祖。は孔、は丘、は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。釈迦、キリスト、マホメットと並び四聖人に数えられる。その死後約四百年かけて弟子達が編纂したのが『論語』である。

孔子は四聖人の一人で、釈迦、キリスト、孔子、マホメット、以上の四人の一人である。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった末、国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子の死後約四百年かけて編纂した弟子たちの言語録は『論語』にまとめられた。

3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[2]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている(そのため、四科十哲とも呼ばれる)。すなわち、徳行(論語古義によると徳行は、言語・政事・文学の三者を兼ねる)に顔回閔子騫冉伯牛仲弓、言語に宰我子貢、政事に冉有子路、文学(学問のこと)に子游子夏である。(その中でも子路と孔子のやり取りが論語のなかでは1番多い。)その他、の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目としたに加え、実践が可能とされる徳目の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて治主義を主張した。『』『』『』『』『』『春秋』といったの書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集であるが整理された(完成は漢代)。

孔子の死後、孟子荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。

20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開[3]。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥孔子学院を参照)。

孔 丘
Confucius 02
生誕 紀元前552年
死没 紀元前479年
時代 中国・春秋時代
学派 儒教
主な概念 仁、君子
孔子
各種表記
繁体字 孔子
簡体字 孔子
拼音 Kǒngzǐ
注音符号 ㄎㄨㄥˇㄗˇ
ラテン字 K'ung3-tzu3
発音: コンツー
広東語拼音 Hung2-zi2
台湾語白話字 Khóng-tsú
日本語読み: こうし
英文 Confucius
Konfuzius
孔夫子の像

時代背景

周公旦と礼学

孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする諸侯国で、周公旦は周王室の有力者でを滅ぼした武王の弟とされる。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、克殷直後の周を安定させたと伝えられている。周公旦は、征服地の山東半島の曲阜に封じられて諸侯のひとり魯公となるが、魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは関中鎬京華北平原への出口を扼する洛陽を拠点とする周本国で朝政に当たっていた。

周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。論語の伝えるところによれば孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。

魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、周王朝の古い礼制がよく保存されていた[4]。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。

魯国の状況

春秋時代に入ってからの魯国は、といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代君主桓公の子に生まれた3兄弟の慶父叔牙季友は第16代荘公重臣となり、慶父から孟孫氏仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏に分かれ代々の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を務めた。

孔子の生まれた当時は襄公紀元前572年-紀元前542年)の時代であった。紀元前562年には季孫氏の季孫宿(季武子)の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる [5]

生涯

出自

紀元前552年(一説には前551年)に、国昌平郷辺境の鄹邑(陬邑、すうゆう)、現在の山東省曲阜(きょくふ)で鄹邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇(しゅくりょうこつ)、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在(がんちょうざい)とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた[6]。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる[7]。また『史記』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている[8]。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている[9]。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている[10]

『史記』によれば、孔子の祖先はの人であるという。『孔子家語』本姓解ではさらに詳しく系図を記し、孔子を宋の厲公の兄である弗父何の十代後の子孫であり、孔子の曾祖父の防叔のときに魯に移ってきたと言っている。

孔子は3歳の時に父の叔梁紇を失い、母の顔徴在とともに曲阜の街へと移住したが、17歳の時に母も失い、孤児として育ちながらも勉強に励んで礼学を修めた。幼少期には、母の顔徴在の影響を受けて、葬式ごっこをして遊んでいたという。しかし、成長してから、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。

弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ[11]、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった[12]

青年期

紀元前542年6月、魯の襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である裯が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。

紀元前537年に魯の軍事を独占していた季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。この前年の紀元前538年に15歳の孔丘が学に志している。

紀元前534年、孔子19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚する[13]。翌年、子の(り) (字は伯魚)が誕生。

紀元前525年、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し、まず倉庫を管理する委吏に、次に牧場を管理する乗田となった[14]紀元前518年には、孔子がはじめて弟子をとった記録が残っている[15]。またこの年、孔子は周の都である洛陽へと遊学している。

紀元前517年、孔子が36歳のときに第23代君主昭公による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季孫氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する[16]。同年9月、昭公が季孫氏の季孫意如を攻めるが、クーデターは失敗し、へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。この途上で「苛政は虎よりも猛なり」の故事が起こった[17]。この間、魯は紀元前509年定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。

紀元前516年、斉の景公が孔子を召し出そうとしたが、宰相の晏嬰がこれを阻んだ。また、孔子はの首都臨淄で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。紀元前517年、孔子は魯へと戻った[18]。魯に戻ってからの孔子は長く仕官せず、弟子をとり教育することに励んだ。顔回や仲弓、子貢などの主要な弟子の多くはこの時期に入門している。

紀元前505年、季孫氏当主の季孫斯(季桓子)に仕えていた陽虎(陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった[19]。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。

紀元前502年に陽虎は叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅に召抱えられた。

大司寇時代

紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた[20]。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これはかの有名な宰相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる[21]。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った[22]。この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった[23]

紀元前498年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を誅殺する[24]

紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季孫氏に推薦したうえで、三桓氏の本城の城壁を破壊する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった[25]。これは、先に陽虎が季孫氏に反旗を翻したように、曲阜に国相として居住する三桓氏に対し、地方にある三桓氏の居城にいる有力家臣がその本城に拠って下剋上を起こす傾向が強かったため、この憂いを取り除くためのものとして孔子が定公ならびに三桓氏に勧めたもので、このため君主権を拡大できる定公のみならず、三桓氏の同意もいったんは得ることができた。しかし、叔孫氏の本城城壁は破壊できたものの、家臣の抵抗にあっててこずり、孟孫氏の本城では家臣が同意せずに城壁に拠って抵抗を続けたうえ、主君である孟孫氏もこれに納得して反対の立場に回ったために失敗した[26]

亡命から晩年まで

翌年の紀元前497年に官を辞し、弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。以後、孔子は13年の間諸国を転々とする。まず孔子が赴いたのはであり、ここに5年ほど滞在した。ついで紀元前493年、いったんに向かったが衛にいったん戻り、へ向かおうとしてで妨害されたためにへと逃れ、ついでに赴き、いったんに向かった時期を含めるとここに4年ほど滞在した。紀元前489年、孔子はに向かったが、同年には衛へと戻り、紀元前484年に魯に帰国するまでは衛に滞在し続けた。

紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国のに攻められるも奮戦し、和解した。その後、斉に攻められ敗北した。前485年には呉と共に斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。

紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行なう。この年、子の鯉が50歳で死んでいる。

前483年、孔子は斉の簡公を討伐するよう哀公に進軍を勧めるが、実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。『論語』の憲問編にて「大夫の末席に連なる以上、(聞き入れて貰えないのは分かっていても)言わざるを得なかった」と嘆いたと記すのはこの時のことである。

孔子の作と伝えられる歴史書『春秋』は哀公14年(紀元前481年)に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、叔孫氏に仕える御者が、麒麟を捉えたという記事(獲麟)で終了する。このことから後の儒学者は、孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。この年、一番弟子だった顔回が死去している。次いで紀元前480年には衛に仕えていた子路も殺された。

紀元前479年に孔子は74歳で没し曲阜の城北の泗水のほとりに葬られた。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著した。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。

孔子死後の魯

孔子の死後、前471年に哀公はと同じく斉へ指揮官として進軍する。さらに前468年に三桓氏の武力討伐を試みるも三桓氏に屈し、を転々とした後にへ国外追放され、前467年にその地で没した。

孔鯉の息子で孔子の孫である子思(紀元前483年?-紀元前402年?)は幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はわずかだが、曾子の教えを受け儒家となり、魯の第30代君主穆公(? - 紀元前383年)に仕えた。穆公は在位期間中に改革を実行し、哀公・悼公・元公の3代にわたる三桓氏の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の斉とのあいだで数度の戦争を展開した。孟子は子思の学派から儒学を学んでいる。

のち、国としての魯は衰退し、紀元前249年に併合され、滅亡した。

思想

仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面とという家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある[27]。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。

Confucius Statue at the Yushima Seido
湯島聖堂にある孔子像

封号

孔子の没後、孔子に対して時の為政者から様々な封号が贈られた。

孔子の封号一覧[28]
時 代 贈った為政者 封 号 年月(西暦)
春秋時代 哀公 尼父 哀公16年4月(紀元前479年
前漢 平帝(実質王莽の差し金) 褒成宣尼公 元始元年夏5月(1年
北魏 孝文帝 文聖尼父 太和16年2月(492年
北周 静帝 鄒国公 大象2年3月(580年
文帝 先師尼父 開皇元年(581年
太宗 先聖 貞観2年(628年
宣父 貞観11年(637年
高宗 太師 乾封元年1月(666年
武則天武周 隆道公 天授元年(690年
玄宗 文宣王 開元27年(739年
北宋 真宗 元聖文宣王 大中祥符元年11月(1008年
至聖文宣王 大中祥符5年12月(1012年
成宗 大成至聖文宣王 大徳11年7月(1307年
世宗 至聖先師孔子 嘉靖9年(1530年
世祖 大成至聖文宣先師孔子 順治2年(1645年
至聖先師 順治14年(1657年
中華民国 国民政府 大成至聖先師 民国24年(1935年

人物

身長は96、216cmの長身(春秋時代の1尺=22.5cmとして計算)で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。 容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという(『荘子』外物篇)。

飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉を細く切った物)などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかった。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は三日以上は持ち越さず、三日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていた[29][1]

子孫

孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(11世孫)、孔融(20世孫)などがいる。孔子の子孫と称する者は数多く、直系でなければ現在400万人を超すという。

孔子に敬意を表するため、孔子その人に様々な封号が贈られたのは前述の通りであるが、その子孫にも厚い待遇が為された。まず前漢皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡梅福の建言により、の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下っての皇帝仁宗1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。

孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる。

孔子の死後すぐに、孔子の住居は魯の哀公によって廟に作り替えられた。この廟(孔廟)は歴代王朝によって維持・拡張され、巨大な建築群となった。現代においては、北京紫禁城に次ぎ、泰安市岱廟とともに中国三大宮廷建築の一つと呼ばれている。また、泗水のほとりに葬られた孔子の墓である孔林も、歴代の孔子の子孫が埋葬され続けるとともに規模も拡大され、広大な墓所となった。この孔林に埋葬されている孔子の子孫の数は10万人以上ともされている[30]。そして宋朝期からは、孔廟と孔林を維持管理するために孔家は曲阜に邸宅をもうけ、1055年に衍聖公に封じられると維持管理の役所も兼ねるようになった。この邸宅は衍聖公府(孔府)と呼ばれ、これも後世になるにつれて拡張され立派なものになっていった。この3つの建築群はあわせて、三孔と呼ばれる。現在でも、山東省曲阜市には孔廟孔林、そして孔府(旧称・衍聖公府)が現存している。第46代孔宗願から、第77代孔徳成に至るまで直系の子孫は孔府に住んでいた。なお、孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、1949年に台湾へ移住している。中華人民共和国の外交官孔泉は、孔子の76代目の子孫といわれる。

朝鮮氏族曲阜孔氏の始祖である[31]

これらの三孔の建築群は、1994年ユネスコによって世界遺産に指定された[32]

系譜

孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで83代の系譜を収めたこの家系図は2005年ギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されている。なおこの孔子世家譜は2009年現在までに5回の大改訂が行われている。第1回は明時代(1621年 - 1627年)、第2回と第3回は清時代(1662年 - 1723年)、(1736年 - 1795年)、第4回は中華民国時代(1930年 - 1937年)、第5回は中華人民共和国時代(1998年 - 2009年)である。第5回目の大改訂については、2008年12月31日に資料収集が終了[33]2009年9月24日に完成した[34]。今回の孔子世家譜には初めて中国国外及び女性の子孫も収録され[35]、200万人以上の収録がなされた[34]

伝記(学術)

孔子を題材にした作品

小説

  • 下村湖人 『論語物語』 講談社学術文庫、ISBN 4061584936
  • 中島敦弟子』 岩波、角川、新潮の各文庫ほか
  • 井上靖 『孔子』 新潮文庫、ISBN 4101063362
  • 緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、新装版2007年、ISBN 462568403X
  • 酒見賢一 『陋巷に在り新潮文庫全13巻
  • 李長之 『人間孔子』 守屋洋訳、徳間文庫、1989年
  • 銭寧 『聖人・孔子の生涯』 松岡亮訳、東洋書院、2005年
  • 丁寅生 『孔子物語』 孔健・久米旺生訳、徳間文庫、2008年
  • 三宅昭 『小説 論語物語』 三宅参衛監修 鶴書院、2009年

映画

テレビドラマ

漫画

アニメ

  • 『孔子傳』(NHKアニメーション、1995年、監督:出崎統、原作は上記『東周英雄伝』)

コメディ

脚注

  1. ^ 津曲 2013, p. 1156.
  2. ^ 史記』孔子世家
  3. ^ http://www.afpbb.com/articles/-/2215012 「再び脚光浴びる「孔子の教え」 - 中国」AFPBB 2007年04月22日 2015年11月2日閲覧
  4. ^ 「孔子 中国の知的源流」p21 蜂谷邦夫 講談社現代新書 1997年5月20日第1刷
  5. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,42-3頁
  6. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,43頁
  7. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,57頁
  8. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,51頁
  9. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,52頁
  10. ^ 論語』子罕編。貝塚、62頁。
  11. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,66頁
  12. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年
  13. ^ 「家語」
  14. ^ 「孟子」「史記」
  15. ^ 「図説孔子 生涯と思想」p275 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷
  16. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,146頁
  17. ^ 「図説孔子 生涯と思想」p30 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷
  18. ^ 「図説孔子 生涯と思想」p276 孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳 科学出版社東京発行 国書刊行会 2014年12月22日初版第1刷
  19. ^ 論語 陽貨第十七
  20. ^ 『史記』孔子世家
  21. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,171頁
  22. ^ 『史記』孔子世家、左伝
  23. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,171頁
  24. ^ 弟子が少正卯についた話は後漢王充論衡』講瑞篇に初めて見え、また孔子が少正卯を殺した話は『荀子』宥坐篇に初めて現れ、それ以前の文献には記さない。したがって、いずれも後世の創作の可能性がある
  25. ^ 貝塚茂樹『孔子』岩波新書、1951年,173頁
  26. ^ 「孔子 中国の知的源流」p45-46 蜂谷邦夫 講談社現代新書 1997年5月20日第1刷
  27. ^ 吉田亮太『春秋戦国政治外交史』三恵社、2014年、P58-61
  28. ^ ※この一覧表は、江連隆『論語と孔子の事典』(大修館書店、1996年)を参照し作成
  29. ^ 論語:郷党第十八
  30. ^ http://www.cnta-osaka.jp/heritage/temple-and-cemetery-of-confucius_and-the-kong-family-mansion-in-qufu 「曲阜の孔廟、孔林、孔府」中国国家観光局大阪駐在事務所 2015年11月2日閲覧
  31. ^ ネイバー知識検索 공 孔. 斗山世界大百科事典.
  32. ^ 小学館編『地球紀行 世界遺産の旅』p186 小学館<GREEN Mook>1999.10、ISBN 4-09-102051-8
  33. ^ 孔子の子孫200万人超に、「孔子家系図」9月に出版―中国、エキサイトニュース、2009年1月3日。
  34. ^ a b 孔子の子孫は200万人…家系図の大改訂で女性含め認定、サーチナ、2009年9月24日。
  35. ^ 孔子の家系図改訂、子孫は200万人を超える、AFP BB News、2008年2月18日。
  36. ^ 新書版とクーリルの著作以外は、初版単行本があり、和辻・貝塚・白川は著作集に所収。

参考文献

津曲真一「シェンラブ伝に於ける孔子の位置」『宗教研究』第86巻第4号、2013年、 1156-。

坂口昌弘著『ヴァーサス日本文化精神史』文學の森

関連項目

外部リンク

五経

五経(ごけい・ごきょう)または六経(りっけい・りくけい)は、儒教で基本経典とされる5種類または6種類の経書の総称。すなわち『詩経』『書経』『礼記』『楽経』『易経』『春秋』の六経から、はやく失われた『楽』を除いたものが「五経」である。すべて孔子以前からの書物であるが、伝統的な儒教の考えでは孔子の手を経て現在の形になったと考えられている。

ただし、実際に五経として読まれる書物の内容は時代によって異なっており、また孔子以後の儒家たちの注釈である「伝」を含めた形で読まれた。

現行のいわゆる五経は、唐代の『五経正義』以来の『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』である。

儒教

儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。

司馬遷

司馬 遷(しば せん、紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。

姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。

孟子

孟子(もうし、簡体字: 孟子、拼音: Mèngzǐ、紀元前372年? - 紀元前289年)は、中国戦国時代の儒学者、思想家。姓は姫、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」は先生という意味。孔子の教えを受け継ぎ儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。

あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうし)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。

日本の儒教

日本の儒教(にほんのじゅきょう)では、日本における儒教について概説する。

春秋

『春秋』(しゅんじゅう)は、魯国の年次によって記録された、中国春秋時代に関する編年体の歴史書である。儒教では、孔子の手が加わった、もしくは孔子が作ったとされ、その聖典である経書(五経または六経)の一つとされている。しかし、孔子が手を加える以前の『春秋』は既に散佚しており、孔子が『春秋』のどこに手を加えて経書の『春秋』にしたのか、不明なところも多い。

春秋左氏伝

『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん、旧字:春秋左氏傳、拼音: Chūnqiū Zuǒshìzhuàn)は、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。通称『左伝』。『春秋左氏』『左氏伝』ということもある。現存する他の注釈書『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれている。

曲阜市

曲阜市(きょくふ-し)は中華人民共和国山東省済寧市に位置する県級市。省都・済南からは約130kmに位置する。泗河(泗水)が東から西へ流れている。

周・春秋時代の魯国の故地であるほか、孔子の生地として世界に知られている。曲阜は中国政府の「国家歴史文化名城」(歴史都市)の称号が真先にあたえられたほか、1994年にユネスコの世界遺産にも登録された。

書経

『書経』(しょきょう)は、中国古代の歴史書で、伝説の聖人である堯・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている。

『尚書』または単に『書』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある。

内容に違いがある2種類の本文が伝わっており、それぞれを「古文尚書」・「今文尚書」と呼んで区別する。

現代に伝わっている「古文尚書」は由来に偽りがあることが断定されているので「偽古文尚書」とも呼ばれる。もともとの「古文尚書」は失われており、現代には伝わっていない。

木鐸社

木鐸社(ぼくたくしゃ)は、日本の出版社。社会科学の専門書を出版している。

社名の「木鐸」は、古代中国の人物孔子著の「論語」の一説を引用している。

温県

温県(おん-けん)は中華人民共和国河南省焦作市に位置する県。孔子の弟子子夏や西晋・東晋の皇帝となった司馬氏の出身地である。

紀元前5世紀

紀元前5世紀(きげんぜんごせいき)は、西暦による紀元前500年から紀元前401年までの100年間を指す世紀。

衛(えい、紀元前11世紀 - 紀元前209年)は、中国の周代・春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国。

衛の始祖は周の文王の九男の康叔である。三兄の管叔鮮等が殷より周を攻め、四兄の周公旦が乱を鎮めた後に、康叔は周より衛君に封じられ、二分された殷の遺民の一方を民とし朝歌を都とした。

第8代頃侯の時、多くの財物を周王朝に献上したことから侯爵に叙された。第10代武公の時には、周の幽王が犬戎に殺されると、兵を率いて犬戎討伐に駆けつけ、その功により周王室から公爵に叙された。

その領土は狭いとはいえ、黄河流域の中原の中心地であり、先進地帯であった。しかしそのため、衛は周辺諸国との折衝に忙殺されることになる。紀元前660年には狄により滅ぼされるが、斉の桓公の助力により国を復活した。のちには亡命時代の晋の文公を冷遇して他国へ移らせ、孔子を迎え入れた時にも冷遇して他国へ追いやるなど、優秀な人材が滞在してもすぐに出国してしまう状況であった。また、公族の一人であった商鞅は魏を経て秦に仕えて活躍している。

戦国時代には韓・魏の半属国状態となり、紀元前240年には秦に事実上滅ぼされるものの、名目的には細々と続き、最終的には最後の君主・衛君角が紀元前209年に秦の二世皇帝(胡亥)に廃されることによって滅んだ。

詩経

『詩経』(しきょう、拼音: Shī Jīng)は、中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文)と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。

西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子自身が詩句を引用していることから、その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。

現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、『毛詩』と呼ぶことも多い。または詩三百・詩三百篇・或いはただ単に三百篇・三百五篇・三百十一篇とも呼ばれる。

誕生日

誕生日(たんじょうび)は、特定の人や動物等の生まれた日、あるいは、毎年迎える誕生の記念日のこと。「○年〇月〇日」のような「年」の部分をつけてある特定の人等の誕生の日を示すこともあれば、単に「○月○日」のみで記念日を示すこともある。前者の、ある特定の人等の誕生の日である「○年〇月〇日」の用法は、生年月日と同義。

一般に、人は誕生日を迎えると一歳年齢を加えるものと考えられているが、法的な基準とは若干異なる(後述)。対義語は命日。人・動物のほか、派生的に物やサービスなどにも用いる場合がある。

論語

『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ)とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて朱子学における「四書」の1つに数えられる。

四書のひとつである『孟子』はその言行の主の名が書名であるが、『論語』の書名が(たとえば「孔子」でなく)『論語』であるその由来は明らかでない(『漢書』巻30芸文志に「門人相與輯而論纂 故謂之 論語」と門人たちが書き付けていた孔子の言葉や問答を、孔子死後に取り集めて論纂し、そこで『論語』と題したとある)。

別名、「倫語(りんご)」、「輪語」、「円珠経(えんじゅきょう)」とも言う。これは、六朝時代の学者、皇侃(おうかん)の著作『論語義疏』によると、漢代の鄭玄(じょうげん)という学者が論語を以て世務を経綸することが出来る書物だと言った所から、「倫語」という語が出現し、又その説く所は円転極まりないこと車輪の如しというので、「輪語」というと注釈し、「円珠経」については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らし出さないが、珠(玉)

は一寸四方の小さいものでも上下四方を照らすものであり、諸家の学説は鏡の如きもので一面しか照らさないが、論語は正に円通極まりないものである、という所から「円珠経」と言うと説かれている。

諸子百家

諸子百家(しょしひゃっか)とは、中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」は孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの人物を指す。「百家」は儒家、道家、墨家、名家、法家などの学派を指す。

鄒城市

鄒城市(すうじょう-し)は中華人民共和国山東省西南部の済寧市に位置する県級市である。儒教では孔子に次ぐ重要な人物で「亜聖」とも呼ばれる孟子の出身地として知られ、国家歴史文化名城にも指定されている古都である。

魯(ろ)は、中国の国名・地名。地名としての魯は現在の中国山東省南部を指す。山東省全体の略称(雅名)としても用いられる。

諸侯国としての魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、中国大陸に周代、春秋時代、戦国時代に亘って存在した国である。代々の魯公(魯の君主)の爵位は侯爵であり、姓は姫(き)である。首府は曲阜。

周公旦(周王朝の開祖である武王の弟で、武王の子成王を補佐した)の子伯禽が成王によって封ぜられて成立した。

春秋時代に入ってからは、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となる。しかも、国内では、魯の公族である三桓氏が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱した。

しかしながら、この混乱した小国が思想史・文化史に果たした役割は大きい。周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、魯の出身である孔子であり、その一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化というものがあったからともいえる。ちなみに孔子が魯に仕えていたのは若年時までと晩年のみで、各国に弟子と共に放浪していた時期も長かった。なお、「春秋」は、隠公元年(紀元前722年)から、哀公14年(紀元前481年)までの魯国の年次記録が基になっている。

孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上として三桓氏に分割されてしまう。魯公室は細々と生き残るが、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。

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