土塁

土塁(どるい、: earthwork fortification)とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた土製の堤防状の壁である。

日本

Yamasinaj2
山科本願寺の土塁跡
Hirosaki-jo 004
近世城郭(平城)の土塁(弘前城三の丸追手虎口)

日本では古代から近世にわたって、豪族住居環濠集落、陣地、、などの周囲にライン状に盛られた。安土、的土(あづち)ともいう。

平地に盛られる土塁はと組みとして作られ、堀を穿ったときの土を盛土に利用して作られることが多い。これを掻揚土塁(かきあげどるい)という。土塁内側からの高さは低くて約2メートル、高くて3メートルほどある[1]。また、盛土ではなく山の斜面で切土(きりど)をして勾配を造ったものを切岸(きりぎし)をいう。江戸時代以前、こうした土塁や切岸は土居(どい)、土手(どて)と呼ばれていた[2]

土塁の役割として、防御区画内部への攻撃側の侵入を阻止する障壁。攻撃側からの防御区画内部への視界を遮り射撃を防ぐ。戦術上有利な位置となる高所を守備側に占位させる。などがあげられる。

構造

通常の土塁は、曲輪のライン状に盛られるが、竪土塁(たてどるい)という、山などの斜面の縦方向に盛られた土塁もある。登り石垣と同様の機能である。曲輪の櫓を上げる部分では土塁の幅を広くとる。城によって櫓台は石垣とする場合もある。

土塁の天端や法面にできた平面部分を馬踏(まふみ)といい、人馬が通行可能な幅をとった。一方、基底部を土敷居(つちしきい)という。[3]馬踏に塀や柵を建てた場合、城内側のスペースを武者走り、城外側のスペースを犬走りと呼んだ。犬走りは塀の基礎を安定させるためのスペースであり、15程度以上の幅をとる必要があった[1]

工程

土塁は、その工程によっておおまかに2つの種類が分けられる。

  • 版築土塁(はんちくどるい)
版築版という木製の型枠を立てた内部で、異なる性質の土や瓦礫、砂、細かい粒の砂利、粘土などを数十ミリメートルほどの層に蛸木などで突き固めて多層に積み上げて盛る方法。[3][4]
日本では奈良時代頃から見られる土塁の盛り方。一方、版築状土塁は版築版を使わずに版築と同様の方法で土を積み上げたものである[4]
  • たたき土塁
土砂や粘土を叩き固めながら積み重ねて盛る方法。版築土塁と違い、大雑把に土を積んでたたき締める[4]

土留

土塁は叩いて固めることで完成時は乾燥すると固く頑丈となるが、土砂でできているものであるため風雨に弱く、叩き締めた状態のままにしておくと土砂が流出して崩壊してしまう恐れがあった。こうした、斜面崩壊を防ぐために土留を施す。

土塁の法面に、草を植えて繁殖させることで土塁崩壊を防いだ。芝を植えたものを芝土居(しばどい、しばどゐ)といい、積土に芝を混ぜ叩き固めたものもある。植えられる草は芝だけでなく、ジャノヒゲ小笹熊笹なども植えられた[1][2]。特に竹を植えたものは豊臣秀吉による御土居(京都府)や津山城(岡山県)にその例があり、津山城では「竹土手」と呼ばれていた[2]。また、熊笹を植えたものは「熊笹土塁」とも呼ばれ、降雪の多い地域の城に例が多い[3]

また、土留には腰巻石垣(こしまきいしがき)という、底辺部に低く積んだ石垣も用いられた[1]

上条城

平城の土塁(上条城

船岡山城1

山城の土塁(船岡山城

芥川山城12

山城の竪土塁(芥川山城

Imperial Palace Tokyo Sakurada Moat

近世城郭の土塁(江戸城桜田堀)

Shoueiji rampart

勝栄寺の復元土塁[5]

Nakamura castle-earthwork fortification KIMG0188

現存する土塁(仲村城

脚注

  1. ^ a b c d 三浦正幸著『城のつくり方図典』小学館 2005年
  2. ^ a b c 加藤理文編『別冊歴史読本 城の見方・歩き方』新人物往来社 2002年
  3. ^ a b c 西ヶ谷恭弘編著『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版 2008年
  4. ^ a b c 香川元太郎著『歴群[図解]マスター 城』学習研究社 2012年
  5. ^ 現存していた土塁遺構を復元してジャノヒゲ(玉竜)を植えている(現地説明板「山口県指定史跡 勝栄寺土塁及び旧境内」)

関連項目

モスクワ

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: [mɐˈskva] マスクヴァー、 発音)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市(Город Москва)」となる。人口は約1,250万人でヨーロッパでもっとも人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、アメリカではマスコウ、イギリスではモスコウ(Moscow [米:mάskoʊ][ˈ英:mɒskoʊ])のようになる。

三木城

三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(兵庫県三木市上の丸町)にあった日本の城。平山城。釜山城や別所城とも呼ばれる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。

五稜郭

五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府により蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された稜堡式の城郭である。同時期に築城された長野県佐久市の龍岡城も稜堡式城郭であり「五稜郭」と呼ばれるが、単に「五稜郭」といえば函館の城郭とする場合も多い。

予算書時点から五稜郭の名称は用いられていた。ただし、築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。

五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。

現在残る星形の遺構から外側100~350メートルには、北と北西を除いて外郭の土塁がかつて存在したが、現在では国有保安林となっている箇所以外、面影は失われている。

国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している。

佐賀城

佐賀城(さがじょう)は、佐賀県佐賀市にあった日本の城。古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城であった。

城郭都市

城郭都市(じょうかくとし)とは、城壁で周囲を囲み堅固に防御した都市を指す

。土塁、堀なども防御施設として用いられる。

基肄城

基肄城(きいじょう / きいのき、椽城)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、1954年(昭和29年)3月20日、国の特別史跡「基肄(椽)城跡」に指定されている。

堀(ほり)は、敵や動物の侵入を防ぐため、古代から近世にわたって、城、寺、豪族の住居、集落、古墳などの周囲に掘られた溝のことである。

宇都宮城

宇都宮城(うつのみやじょう)は、栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。

小田原城

小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)で、北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。

山科本願寺

山科本願寺(やましなほんがんじ)は、京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、文明15年8月22日(1483年9月23日)に完成・建立。

周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。

現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。

忍城

忍城(おしじょう)は、埼玉県行田市に存在した日本の城である。埼玉県指定旧跡。

室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている。要害堅固な城であったことから戦国時代には関東七名城の一つ、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称された。江戸時代に入ると忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われた。明治維新後、1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に廃城となり、1873年(明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されたが、城跡は県指定記念物の旧跡に指定されている。また、本丸跡には御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されている。

日本の城

日本の城(にっぽんのしろ・にほんのしろ)では、日本国内に築かれた城について解説する。アイヌのチャシや沖縄県および鹿児島県の奄美群島にあったグスクについても一部解説する。

日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれる。幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工事)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)からなる。屋敷や櫓・天守も作事に含まれる。

中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していた。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住した。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れた。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれる。中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがある。

曲輪

曲輪(くるわ)は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。

主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。

水城

水城(みずき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた、日本の古代の城である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定されている。

石垣

石垣(いしがき、英語:stone fence、stone wall)は、石を組み上げて作られた壁、もしくは柵のこと。「石積み」「石塁(せきるい)」も同様に用いられる。

総構え

総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。

虎口

虎口(こぐち)とは中世以降の城郭における出入り口のことで、「こぐち」には狭い道・狭い口という意味がある。「小口」とも書く。「虎口(ここう)」とよむ場合は、中世の戦場や陣地における危険な場所を意味する。

遺構

遺構(いこう)は、過去の建築物、工作物、土木構造物などが後世に残された状態、言い換えれば過去の人類の活動の痕跡のうちの不動産的なものを指す。現在まで残存している部分のみを言ったり、かつての建造物の構造の痕跡が確認される全体を指したりする。英語で言うところのFeatureが、日本語の遺構に近い概念だが、一般的にFeatureには、垂直的なもの(ピット、壁、溝など)は含まれるが、水平的なもの(生活面、床面、庭、道路など)は含まれないとされる。

陣屋

陣屋(じんや)は、江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のことである。

日本の旗日本の城関連用語

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