副葬品

副葬品(ふくそうひん)は葬儀に際して死者と共に埋葬される器物である。なお人間動物など生物を殺して共に埋めることを殉葬という。

概要

副葬品は、死者を弔う上あるいは死後に必要と考えられたために、共に埋葬される物品である。こういった文化形態は人間がを単なる現象ではなく、特別な意味があるものだと捉えるようになって以降に発達したと考えられており、その様式は様々ではあるものの、有史以前より死者と共に様々な物品が埋葬されている。火葬においては、共にに納められ遺体と共に燃やされるものもあれば、火葬後にに収められる段階で遺骨と共に埋葬されるものもある。

最も原初的な形態は、人が生活するうえで必要とされる食品や、あるいは当人が生前に使用していた道具、あるいは心和ませる草花など、死者自身や彼ないし彼女を取り巻きそれを埋葬した当事者らにとって身近な物品であったと考えられており、今日考古学において発掘される墳墓など埋葬跡からは、当時を忍ばせる様々な遺物が出土している。こういった活動は現代に連なるヒト直系の祖先だけではなく、異説もあるがネアンデルタール人の社会にもあったとも考えられている。

共に埋葬される物品という意味では、棺や衣類・更には死者に手向けられ棺に納められるも共に火葬されたり埋葬されるが、これらは余り意識して副葬品扱いされることはない。これらは死者を収める容器であったり、遺体といえども人間としての尊厳がある以上、着衣の状態が標準的であり、死者の存在と不可分なためである。しかし前述のネアンデルタール人埋葬跡の例では、化石花粉が見出されたため、埋葬に際して花を供えたと考えられ、その意味では花は副葬品である。

より実際的な意味での副葬品では、遺体そのものとは関係ないが、故人に関係のある物品が共に葬られたり、あるいは宗教的な価値観から死後世界で必要と考えられる物が副葬品として供えられる。例えば日本の仏教様式では、火葬となった後にが暫く徒歩で三途の川まで歩かないといけない(をする)ために、火葬前の棺の中には三途の川の渡し賃である冥銭と、道中で必要なという最低限の食料が、小さな布製の袋に収められて遺体に添えられる。なお余禄ではあるが、その日本では、通例として火葬の際に燃え尽きてしまう身の回りの物品を棺に納めることもしばしば行なわれる。

また、宗教観に基づく死後必要と考えられる物や故人に縁の物品だけではなく、権力者など特定の社会的地位を持った者では、その地位に相応しいと考えられる物も特別に用意され共に埋葬される場合もある。召し使いが必要だと考えれば、殉死などの形で召し使いそのものを副葬品とする場合もあったが、こういった考え方は人権など社会通念の発達(→人道)にも伴い、それを代用する人形で済まされたりするようにもなっている(→埴輪)。

後世の社会の係わり

副葬品は、様々な社会で各々の形態があるものの、こと権力者などでは財宝など後世にも通用する貴重な物品が共に納められる場合もある。また、当時の文化・技術の粋を凝らした工芸品などが納められる場合もある。

盗掘

死者当人や、その死者に対する弔意から副葬品を納めた側からすると迷惑なことかもしれないが、財産的価値がある副葬品が納められた墳墓は中身を得るために掘り返される憂き目に遭い、その遺物を盗まれる場合もある。こういった行為を盗掘というが、高価な副葬品は古代より墓泥棒の狙う対象となった。

ただ、副葬品を納める側としては墓泥棒に施しをするために行なっている訳でもないため、遺体と副葬品とを守るための工夫も凝らされたケースも歴史上に多く見出される。埋葬場所を秘匿することもあったが、中には偽の墓を用意して墓泥棒の目を逸らしたり、或いは構造を工夫し厳重に封印するなどして、墓が荒らされるのを防いだりした。その中には呪術など超常的な力にその加護を求めたと考えられるものも見られ、例えばツタンカーメンの墓の碑文に記された「偉大なるファラオの墓にふれた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう」という「脅し文句」は、これを発掘した考古学者らのチームに怪死が出たことから、長く後世の夢想家の興味を掻き立てることとなった。

しかしこういった埋葬側と盗掘側の知恵比べでは、後述するように考古学の調査対象として研究されることもあれば、良いように荒らされた結果として副葬品が後世に埋葬者とは無関係な場所で、高価な財宝や何らかの記念物として扱われている場合もある。例えば王家の谷近隣では後世に盗掘が地場産業化し村落まで形成されたほか、ワッケーロに絡んではプレ・インカ墳墓の副葬品である土器が地域で厄除け祈願のお守りとして流通しているため、それを発掘しては売り歩く者もいるほか、挙句盗掘対象となる墓が見つからないようになると、この副葬品土器に似せた精巧な贋作まで流通、これら土器の考古学的調査に混乱を招いている。

なお、副葬品の盗掘は、歴史的価値のある墓所だけで起こるわけではない。イギリスのように、土葬が珍しくない国では、死者の生前の持ち物を共に墓に入れることも多く、それを狙っての盗難が後を絶たないとされる[1]

考古学

考古学の範疇では、未盗掘の副葬品は当時を知る重要な手掛かりとなる。これらが当時の文化風土を如実に表しているためであるが、その意味で副葬品のある墳墓は一種のタイムカプセルとして機能する。

脚注

  1. ^ ザ!世界仰天ニュース - 2014年5月7日 奇妙なコトが起こるスペシャル 頭蓋骨は何を語る

関連項目

400年代

400年代(よんひゃくねんだい)は、

西暦(ユリウス暦)400年から409年までの10年間を指す十年紀。本項で詳述する。

西暦400年から499年までの100年間を指す。5世紀とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。

クルガン

クルガン(кургáн, kurgan)は、ユーラシア大陸中緯度のステップ帯に分布する、青銅器時代の土による墳丘を伴う墓もしくは積石塚のマウンドを伴う墳墓である。墳丘墓の一種で、日本の古墳に近い。

そこから発展してしばしば、樹木を組んで作った玄室のような施設までを指す語として使われる。

「クルガン」はトルコ語起源のスラヴ人の単語である。

サマラ文化

サマラ文化(サマラぶんか、英語:Samara culture)は紀元前5千年紀に、ロシア西南部ヴォルガ川流域の銅器時代中期に存在した文化。のちにほぼ同じ地域に発展したクヴァリンスク文化の前段階の文化と考えられる。

セゼイェ(Sezzeye)で発見された集団墓地が代表的遺跡。遺体は土葬されている。平らな形の墓所や伸展位での埋葬法のほか、動物の歯で作った装飾品、イノシシの牙、貝殻、などといった副葬品が、西方のドニエプル・ドネツ文化のものと酷似している。馬の頭や体の骨が見つかっており、それらは墓所を覆うように置かれていることから、馬が葬儀の際に生贄として使用されたものと見られるが、これらの馬が家畜化されていたものであるという確証はない。

インド・ヨーロッパ語族の成立に関する仮説であるクルガン仮説では、古い時代に北方森林地帯の、おそらくウラル語族の言語を話していた人々との活発な交流があったことが想定されているが、サマラ文化の範囲はそういった交流地であったと推測される。

サルマタイ

サルマタイ(ギリシア語:Sarmatai、ラテン語:Sarmatae、英語:Sarmatians)は、紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団。紀元前7世紀末からウラル南部にいたサウロマタイに紀元前4世紀頃東方から移動してきた遊牧民が加わって形成されたとされる。サルマタイはギリシア語であり、ラテン語ではサルマタエとなる。また、彼らのいた黒海北岸地域をその名にちなんでサルマティアと呼ぶため、サルマティア人とも呼ばれる。

ツタンカーメン

ツタンカーメン(トゥトアンクアムン、Tutankhamun、Tutenkh-、-amen、-amonとも。紀元前14世紀、紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン (Tut-ankh-amen)。

ハルシュタット文化

ハルシュタット文化(ハルシュタットぶんか)は、中央ヨーロッパにおいて青銅器時代後期(紀元前12世紀以降)の骨壺墓地文化から発展し、鉄器時代初期(紀元前8世紀から紀元前6世紀)にかけて主流となった文化。後に中央ヨーロッパのほとんどはラ・テーヌ文化に移行した。

名称はオーストリアのザルツブルク州の南東の湖岸の村ザルツカンマーグートにある標式遺跡が出土したハルシュタットに由来する。一般的に西文化圏はケルト祖語及びケルト人と、東文化圏は(祖ー)イリュリア人と関係があるとされている。

ミイラ

ミイラ(木乃伊)とは、人為的加工ないし自然条件によって乾燥され、長期間原型を留めている死体のことである。永久死体であって「枯骸」とも呼ばれる。

同様に長期間保全される状態となった死体としては他に、「死蝋(しろう)」がある。これは、ミイラが主に乾燥によって成立するものであるのに対して、湿潤環境によって成立する永久死体である。

中尊寺金色堂

中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)は、岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺にある平安時代後期建立の仏堂である。奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもので、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、当代の技術を集めたものとして国宝に指定されている。堂の所有者は宗教法人金色院である。なお、中尊寺の歴史や金色堂以外の建築、文化財等については別項「中尊寺」を参照。

刀子

刀子(とうす)は、ものを切る、削るなど加工の用途に用いられる工具の一種。現代の小刀(小型万能ナイフ)に通じる。長さ15 - 30cm程度。

和宮親子内親王

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉- 1877年〈明治10年〉9月2日)は、仁孝天皇の第八皇女。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮と名乗った。

「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。孝明天皇の異母妹。明治天皇の叔母にあたる。品位は二品、薨後贈一品。

大仙陵古墳

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町にある古墳、天皇陵。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、日本最大の古墳である。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)として仁徳天皇 (皇居、宮殿は大阪市にある難波高津宮 (なにわのたかつのみや) ) の陵墓に治定されている。仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)や仁徳陵古墳とも言う。

ユネスコは2019年7月6日、仁徳天皇陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」を世界文化遺産として登録することを決定した。

曹休

曹 休(そう きゅう、? - 228年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は文烈。曹操の族子。祖父は曹鼎(呉郡太守)。父の名は不明。子は曹肇・曹纂ら。孫は曹興(曹肇の子)。曾孫は曹攄(曹興の子)・曹識(曹纂の孫)。玄孫には曹毗(曹識の子)らがいる。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。

楚 (春秋)

楚(そ、紀元前11世紀 - 前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。

稲荷山古墳 (行田市)

稲荷山古墳(いなりやまこふん、埼玉稲荷山古墳)は、埼玉県行田市埼玉にある古墳。形状は前方後円墳。埼玉古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定され(史跡「埼玉古墳群」のうち)、出土品は国宝に指定されている。

金錯銘を有する鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)が出土したことで知られる。

管玉

管玉(くだたま)は管状になっている宝飾装身具の部品、ビーズの一形態で、管に糸を通して腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)などとして用いられる。古代においてはガラスも含む希少な宝石(宝玉)から作られたので、漢字文化圏では別の形状である曲玉・とんぼ玉とともに「ビーズ」に代えて「玉」(ぎょく)名で分類する。

日本では、縄文時代からみられ、今日と同じように腕飾りや首飾りなどとして用いられていたものとみられる。古墳時代にあっては、古墳の副葬品となることが多かった。遅くも奈良時代までに宝飾部品としての製作は一旦途絶している。本項では主に日本古代におけるものについて解説する。

終末期古墳

終末期古墳(しゅうまつきこふん)は、古墳時代末から飛鳥時代にかけての7世紀頃の古墳を指す。森浩一によって最初に提唱された古墳の区分であり、この時代を古墳時代に含むとする考え方と含まないとする考え方がある。終末期古墳としては、千葉県栄町の龍角寺岩屋古墳や山武市の駄ノ塚古墳、奈良県明日香村のキトラ古墳や高松塚古墳などが、特に有名である。

藁人形

藁人形(わらにんぎょう)は、藁を束ねたり、編んだりして人間の形を模した人形である。古代中国では芻霊、ないし芻人と呼んだ。

死者の埋葬の際に副葬品として用いられる他、丑の刻参りにおいて用いられる呪いの道具の一種としても知られる。それに関連して、怪奇映画などでは恐怖を象徴する小道具として用いられることもある。日本では平安時代、疫病が横行した際病魔を駆逐する為に藁人形が道端に立てられることもあった他、田畑を食い荒らす害虫を駆逐する為に藁人形を掲げて田畑を歩き、その後川に流すという習俗もあった。合戦などでは、敵を攪乱(かくらん)する為に藁人形に鎧を着せて人間の武者に見立てることもあったと軍記物語などで言及されている。

遺物

遺物(いぶつ)とは、過去の人類が残した土器や石器などの動産的なもの(動かすことのできるもの)の総称である。遺物には人工遺物と自然的遺物がある。さまざまな道具や装飾品のうち、過去より伝わり、現在は使われなくなったもの。

馬王堆漢墓

馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)は、中華人民共和国湖南省長沙市芙蓉区にある紀元前2世紀の墳墓。利蒼(? - 紀元前186年)とその妻子を葬る。

1972年の発掘時、利蒼の妻の遺体が未だ生けるが如き状態だったことで知られる。

また副葬品にも貴重な工芸品や帛書が含まれ、中国古代史研究にとって多くの重要な資料を提供した。

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