ユーゴスラビア連邦共和国

ユーゴスラビア連邦共和国
Савезна Република Југославија[※ 1]
Savezna Republika Jugoslavija[※ 2]
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 1992 - 2003 セルビア・モンテネグロ
ユーゴスラビア連邦共和国の国旗
ユーゴスラビア連邦共和国の国章
国旗国章
国歌: スラヴ人よ
ユーゴスラビア連邦共和国の位置

ヨーロッパにおけるユーゴスラビア連邦共和国の位置
公用語 セルビア・クロアチア語(1992年-1997年)
セルビア語(1997年-2003年)
首都 ベオグラード
大統領
1992年 - 1993年(初代) ドブリツァ・チョシッチ
1993年 - 1997年ゾラン・リリッチ
1997年 - 2000年スロボダン・ミロシェヴィッチ
2000年 - 2003年ヴォイスラヴ・コシュトニツァ
首相
1992年 - 1993年ミラン・パニッチ
1993年 - 1998年(最後)ラトイェ・コンティッチ
1998年 - 2000年モミル・ブラトヴィッチ
2000年 - 2001年ゾラン・ジジッチ
2001年 - 2003年ドラギシャ・ペシッチ
面積
2002年102,350km²
人口
2002年推計10,656,929人
変遷
憲法 1992年4月27日
建国1992年4月28日
国際連合加盟2000年11月1日
再編2003年2月4日
通貨ユーゴスラビア・ディナールドイツ・マルクユーロ
時間帯UTC 中央ヨーロッパ時間DST: 中央ヨーロッパ夏時間
ccTLD.yu
国際電話番号+381
  1. ^ キリル文字による表記。
  2. ^ ラテン文字による表記。
ユーゴスラビア連邦共和国の位置
  1. ^ キリル文字による表記。
  2. ^ ラテン文字による表記。
Passport of the Federal Republic of Yugoslavia
ユーゴスラビア連邦共和国のパスポート。2009年12月31日まで有効とされた。

ユーゴスラビア連邦共和国(ユーゴスラビアれんぽうきょうわこく、セルビア語セルビア・クロアチア語Савезна Република Југославија; СРЈ / Savezna Republika Jugoslavija; SRJ)は、1992年から2003年まで存続したバルカン半島中部の連邦国家である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)が崩壊して4つの共和国が独立していった後、同国に留まっていたセルビア共和国モンテネグロ共和国によって結成された。スロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナマケドニア分離前のユーゴスラビアと区別して「新ユーゴスラビア」と呼ぶことが多い。

2003年に国家を再編し、国家連合セルビア・モンテネグロに移行した。しかし国家連合もその3年後の2006年、モンテネグロの住民投票で独立が支持されたことに伴い、解消された。その結果、2006年にはモンテネグロセルビアの両国はともに独立国となった[1]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)から4つの共和国が分離したことによって、残された2国から成るユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)はより単一民族的となった。2つの国家で多数派を形成する民族はそれぞれセルビア人モンテネグロ人であるが、両者は民族的・文化的にほぼ同一である。モンテネグロ人の民族主義者は、モンテネグロ人がセルビア人とは異なる独自の民族であると主張するが、それ以外の多くの人々はモンテネグロ人はセルビア人の一支族であると考えている。ユーゴスラビア連邦共和国の少数民族としては、アルバニア人マジャル人ルーマニア人などがいる。コソボ・メトヒヤ自治州で多数派であるアルバニア人と少数派のセルビア人との間で民族的緊張が高まり、両者の衝突はユーゴスラビア連邦共和国の存続期間を通してずっと続いた問題であった[1]

ユーゴスラビア連邦共和国は、1992年の建国から2000年に至るまで、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家とは認められていなかった。1992年から2000年までの間、アメリカ合衆国などの国々はユーゴスラビア連邦共和国を「セルビアとモンテネグロ」、あるいはその中でセルビアが支配的な地位にあったことから単に「セルビア」と呼んでいた。特にスロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア大統領の地位にあった時代、ミロシェヴィッチは連邦の大統領よりも強い影響力を持っていた。ミロシェヴィッチやセルビア民族主義に反対する人々は、ミロシェヴィッチ支配下のユーゴスラビア連邦共和国を「大セルビア」と呼んだ。

歴史

1991年から1992年にかけてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊によって、セルビア共和国モンテネグロ共和国だけがユーゴスラビア連邦に残された。2国は連邦を維持することを決め、1992年に新しい憲法を制定した[1]。旧東側諸国における共産主義体制の崩壊を受け、共産主義体制は正式に放棄され、1990年に解体したユーゴスラビア共産主義者同盟の指導的地位は否定された。国旗からは赤い星が取り除かれ、社会主義的な国章も変更され、セルビアとモンテネグロの象徴の入った双頭の鷲の紋章に変更された。このほかの変更としては、警察の呼称がミリツィヤ(Милиција / Milicija)からポリツィヤ(Полиција / Policija)に改められ、2つの共和国はそれぞれの武力を持つとされた。新しい連邦はまた、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の時代の集団指導体制を廃止し、民主的に選ばれた単独の大統領制とし、民主的に選ばれた一つの議会を持つとされた。

ユーゴスラビア連邦共和国とユーゴスラビア紛争

ユーゴスラビア連邦共和国は、国際的な機関への参加資格を停止されていた。これは、1990年代に進行中であったユーゴスラビア紛争のためである。そのため、旧連邦の資産と責務、とくに国債の分配に関する合意の妨げとなっていた。ユーゴスラビア連邦共和国の政府は、1991年から1995年にかけての紛争で、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナセルビア人勢力を支援していた。そのために、ユーゴスラビア連邦共和国は経済的・政治的な制裁下におかれ、国の経済は壊滅し、多くの若者が国外に流出した。

BBCのドキュメンタリー番組「Death of Yugoslavia」では、ユーゴスラビアの高官ボリサヴ・ヨヴィッチ(Borisav Jović)が、ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人軍がユーゴスラビア人民軍から分かれて組織されたことを明かした。これによって、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立に伴って、そこに駐留していたユーゴスラビア人民軍は「外国の侵略軍」ではなくなり、ユーゴスラビアが侵略者として紛争に介入しているとする見方を回避した。この際、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人軍は、自力での資金拠出能力はなく、ユーゴスラビアから多量の装備と全ての資金を受け取っていた。さらに、セルビア急進党の党首で民兵組織「白い鷹」の創設者でもあるヴォイスラヴ・シェシェリは、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチがシェシェリに対して民兵をボスニア・ヘルツェゴビナに送るよう私的に要請したと主張している。さらに、ボスニアのセルビア人軍を指揮していたのは、かつてのユーゴスラビア人民軍の指揮官ラトコ・ムラディッチであった。[2][3]。ムラディッチはユーゴスラビア人民軍の指揮官として1991年から1992年のクロアチア紛争に従事し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での戦争犯罪の嫌疑でユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追されている[3]

1995年、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビア連邦共和国とボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人勢力を代表してアメリカ合衆国デイトンで和平交渉に臨み、その結果結ばれたデイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は終結した[3]

分離主義の動き

1996年、モンテネグロは、セルビアと結んでいた経済協力関係を破棄し、独自の経済政策を始め、通貨としてドイツマルクを導入した[1]。その後のモンテネグロ政府は独立を目指した政策を採り続け、セルビアとの政治的緊張は2000年にミロシェヴィッチが失脚した後も続いた。さらに、アルバニア人民族主義者の武装組織が1996年ごろから暴力を次第に激化させていった[1]。ユーゴスラビア連邦国家の存続は政府にとって深刻な問題となった。

コソボ紛争

ミロシェヴィッチのセルビア大統領としての2期目の任期が切れると、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦大統領の選挙に出馬し、勝利した。ミロシェヴィッチが連邦大統領となったことによって、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦軍と治安部隊の直接の指揮権を獲得した。ミロシェヴィッチはこれらをコソボの分離主義の動きを抑えるのに使った。衝突は1996年から1999年にかけて激化して、コソボ紛争として知られる内戦へと発展した。

1998年3月の国連決議1160[4]において、安全保障理事会は、「セルビアの警察が平和的なデモ隊、コソボ解放軍のテロ行為に対して行使した暴力的行為を避難して、ユーゴスラビアには紛争に対する政治的解決策を模索すること、コソボのアルバニア人には全てのテロ行為を非難し、平和的な手段で自らの目標を追求するよう求める」という奇妙な要求がなされた。テロ行為があったとしてもユーゴスラビアに警察権の行使は許されないという内政干渉であり、その後の一方的な展開の予兆が垣間見えた。世界の報道には、この国連決議1160の中身を正確に報じた後は全く見られない。

1999年3月から、アメリカ合衆国の指導のもと、北大西洋条約機構(NATO)がコソボ紛争に介入を始めた。NATOはユーゴスラビア政府がアルバニア人に対してコソボジェノサイドを行っているものと考えた。その根拠の一つとなったのが、過激なセルビア人民族主義者のヴォイスラヴ・シェシェリがこの時ユーゴスラビアの首相となっていたことである。シェシェリはクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナの紛争時に民兵組織「白い鷹」を率い、多くの市民を惨殺するなどの蛮行を行っている。これと同様の事がコソボのアルバニア人にも行われる事が懸念されていた。加えて、ミロシェヴィッチもまた上記の蛮行に間接的に関与していたものと考えられていた。NATOはアライド・フォース作戦と呼ばれる大規模な空爆を開始し、ユーゴスラビア連邦軍やセルビア人準軍事組織の関連施設と考えられた場所が空爆された。NATOの作戦は、ユーゴスラビア各地で多くの戦闘員ではない市民を殺害し、各方面から厳しい批判を受けた。ユーゴスラビア政府はNATOの行為は市民を対象にした恐怖攻撃であると批判する一方、NATOは攻撃は適法であると主張した。ベオグラードに対する空爆は第二次世界大戦以来のことであった。NATOの介入後も、セルビア人の軍事勢力によるアルバニア人に対する虐殺が起こった。ツスカの虐殺(Cuska massacre[5]、ポドゥイェヴォの虐殺(Podujevo massacre[6]、ヴェリカ・クルシャの虐殺(Velika Krusa massacre[7]は、いずれもこの紛争中にセルビア人の警察や準軍事組織によってアルバニア人市民に対して行われた虐殺の一部と言われていた。しかし、1999年1月17日、ラチャク村で45人のアルバニア人が殺されたと騒いだ報道は、その後、国連の検死団により、アルバニア側の虚偽[8]であることが明らかになる等、虐殺という言葉を国際世論の同情を買うために虚偽で用いていた側面も明らかになっている。それらのことはお構いなく、NATOは、ユーゴスラビアがコソボでの軍事行動を中止し、コソボの自治を回復するよう求めた。長期に及ぶ空爆の後、ミロシェヴィッチはNATO側の要求を受け入れ、コソボの分離独立運動に対する行動を中止し、コソボから撤退、NATOがコソボを占領することを認めた。

1999年6月、NATOによる空爆が終わった後、NATOやその他の外国の軍がコソボ入りし、コソボ解放軍と協力しコソボの秩序回復にあたった。NATOのコソボ解放軍との協力の決定は、NATOが分離主義者の側に立っているとの思いをセルビア人に抱かせた。コソボ解放軍は紛争中、セルビア人の市民に対して多くの蛮行を行ってきた。コソボの支配権がNATOに渡ったとき、およそ30万人のコソボ住民(主にセルビア人)はコソボを脱出するか追放された。多くのセルビア人がコソボを去ったことによって、コソボのセルビア人人口は劇的に減った。多くのセルビア人たちは、コソボの統治機構に組み込まれたコソボ解放軍によるセルビア人への迫害を恐れていた。多くの批判にも関わらず、国際連合はコソボに関する命令の履行を進めた。この中では、コソボは法的にはユーゴスラビアの一部とされる一方、ユーゴスラビア側の統治権は完全に排除された。コソボの自治権は、かつてコソボが最大の自治権を持っていた1974年から1990年までよりもさらに大きくなった。コソボはモンテネグロに倣ってユーゴスラビア・ディナールの使用を停止し、独自の議会と内閣を持ち、さらにモンテネグロよりも進んで独自の自動車のナンバープレートをも作った。コソボにはユーゴスラビアの法制度は適用されず、独自の政府を持ち、ユーゴスラビアの軍、警察、民兵、準軍事組織はコソボから排除された。コソボに住むセルビア人やロマ、クロアチア人、正教会カトリック教会の施設を守るためのセルビア側からのコソボへの関与は否定された。国際連合の決議は、ユーゴスラビア連邦が解体された後も2009年に至るまでなお効力を持ち続けている。

領土区分

Scg02
ユーゴスラビア連邦共和国の領土区分。黄色で示された大きいほうがセルビア共和国。青で示された小さいほうがモンテネグロ共和国

ユーゴスラビア連邦共和国の領土は、2つの共和国と2つの自治州の4つに大きく分けられる[1]

Flag of Serbia (1992–2004)

Flag of Serbia (1992–2004)

Flag of Montenegro (1994–2004)

Flag of Montenegro (1994–2004)

政治

ユーゴスラビア連邦議会は、市民議会と共和国議会の2つから成る。市民議会はユーゴスラビア市民を代表する通常の議会として機能する一方、共和国議会は連邦を構成するそれぞれの共和国からの同数の議員によって構成され、両共和国の対等性を保障している。

ユーゴスラビア連邦共和国では、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の集団指導体制は廃止され、単一の大統領が選ばれる。ユーゴスラビア連邦共和国の存続期間の間、その大統領の地位は不安定であり、4年以上同じ人物が大統領を務めた例はない。最初の大統領は1992年から1993年までその地位にあったドブリツァ・チョシッチDobrica Ćosić)であり、第二次世界大戦時の共産主義パルチザンの一員であった。チョシッチは後に、物議を醸したセルビア科学芸術アカデミーの覚書の著者の一人となっている。連邦の元首となったにも関わらず、チョシッチは1993年にセルビア大統領のミロシェヴィッチに反対してその地位を追われた。代わって連邦大統領となったのはゾラン・リリッチ(Zoran Lilić)であり、1993年から1997年まで連邦大統領を務めた。1997年にミロシェヴィッチがセルビア大統領としての任期切れを迎えると、ミロシェヴィッチが連邦大統領の地位に就いた。2000年の連邦大統領選挙では、ミロシェヴィッチを利する不正があったとの非難があがった。ミロシェヴィッチの退陣を求めるユーゴスラビアの市民たちは路上でデモを展開し、ベオグラードでは暴動に発展した。ミロシェヴィッチはまもなくその地位から離れ、ヴォイスラヴ・コシュトゥニツァが新しいユーゴスラビア連邦大統領の地位に就いた。コシュトゥニツァは2003年にユーゴスラビア連邦が国家連合セルビア・モンテネグロに移行するまでの間、その大統領の職を務めた。

経済

ユーゴスラビアは、かつての領土を大きく失い、市場が縮小したこと、および経済政策の失敗、紛争による国際的な経済制裁によって、深刻な苦境に陥った。1990年代前半、ユーゴスラビアでは通貨ユーゴスラビア・ディナールはハイパーインフレに見舞われた。1990年代中ごろにはインフレを脱した。さらにユーゴスラビアの経済を悪化させたのは、コソボ紛争におけるインフラ、産業施設への空爆であった。これによってユーゴスラビアの経済は1990年の半分にまで縮小した。ミロシェヴィッチの失脚後、民主野党連合の連立政権は、経済の安定化措置を導入し、大胆な市場改革に乗り出した。国際通貨基金の会員資格を2000年に更新すると、ユーゴスラビアは世界銀行欧州復興開発銀行などへの再加入も果たし、国際社会に復帰していった。

小さいモンテネグロは経済的には連邦政府や、ミロシェヴィッチ時代の前半はセルビアの支配を受けた。その後、2つの共和国は中央銀行を分離し、モンテネグロでは通貨としてドイツマルクを導入し、ドイツマルクがユーロに移行するとユーロが通貨となった[1]。セルビアではその後もユーゴスラビア・ディナールをセルビア・ディナールと改称し、使用し続けた。

ユーゴスラビア連邦の複雑な政治関係、民営化の遅れ、ヨーロッパの景気低迷は、ユーゴスラビア経済に悪影響を及ぼした。国際通貨基金の介入、特に財政規律の要求は、政策決定に重要な要素となった。深刻な失業率は、経済問題の中核であった。汚職や腐敗もまた深刻であり、巨大な闇市や、形式経済に犯罪要素が深く食い込んでいることも問題であった。

脚注

  1. ^ a b c d e f g 久保慶一 (2003年10月10日). 引き裂かれた国家―旧ユーゴ地域の民主化と民族問題. 日本、東京: 有信堂高文社. ISBN 978-4842055510.
  2. ^ 岩田昌征 (1999年8月20日). ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像―学者の冒険. 日本: 御茶の水書房. ISBN 978-4275017703.
  3. ^ a b c 佐原徹哉 (2008年3月20日). ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化. 日本、東京: 有志舎. ISBN 978-4-903426-12-9.
  4. ^ “United Nations Security Council Resolution 1160” (英語). Wikipedia. (2018-08-19).
  5. ^ Justice for Kosovo - Massacre at Cuska
  6. ^ CBC News Indepth: Balkans
  7. ^ BBC News | Inside Kosovo | Velika Krusa
  8. ^ Gowans, Stephen (2001年2月15日). “Sorting Through the Lies of the Racak Massacre and other Myths of Kosovo” (英語). Media Monitors Network (MMN). 2019年6月12日閲覧。
.cs

.csはチェコスロバキア(1989年までチェコスロバキア社会主義共和国、以降はチェコスロバキア連邦共和国)に割り当てられていた国別コードトップレベルドメイン(ccTLD)。

しかし、1993年にチェコスロバキアのチェコ共和国とスロバキア共和国への分割により、2つの新しい国に、それぞれ、.czと.skの新しいccTLDが割り当てられた。.csの使用は減少し、1995年1月頃にccTLDが削除された。

.csは、削除されることになっても、非常に多く利用されていたトップレベルドメインであった。RIPE Network Coordination Centreからの統計では、.czと.skへの置き換えが多数行なわれた後の1994年6月においても、.csドメインが残っていることを示していた。.csは2,300を越えるホストが存在し、他の削除されたTLD(例えば、.nato、.zr等)と比較して、2倍以上の数であった。

また、CSは、セルビアとモンテネグロに分割する以前のセルビア・モンテネグロ(セルビア語:Srbija i Crna Gora)のISO 3166-1におけるコードである。しかし実際には、セルビア・モンテネグロの時代にもユーゴスラビア連邦共和国時代のccTLDである.yuをそのまま使用し続けたため、セルビア・モンテネグロで.csが利用されることはなかった。分割後のISO 3166-1のコードは、セルビアはRS、モンテネグロはMEとなり、それぞれ.rsと.meへの移行が行われている。

KFOR

KFOR(英:Kosovo Force)、コソボ治安維持部隊(コソボちあんいじぶたい)は、1999年6月10日に採択された国連安保理決議1244に基づき、北大西洋条約機構(NATO)指揮の下、当時ユーゴスラビア連邦共和国のセルビア共和国(2008年にセルビア共和国として独立)統治下にあったコソボ・メトヒヤ自治州(2008年2月17日にコソボ共和国として独立を宣言)において治安維持を担う国際安全保障部隊である。

同決議に基づき暫定行政を行う民生部門は国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)という。

アライド・フォース作戦

アライド・フォース作戦(アライド・フォースさくせん、Operation Allied Force)は、北大西洋条約機構 (NATO) 加盟諸国がコソボ紛争末期の1999年に実施した航空攻撃を主とする作戦。作戦名の“Allied Force”とは「連合軍」の意。この作戦によって行われた大規模な空爆を「コソボ空爆」と呼ぶ。

ユーゴスラビア連邦共和国の首都であるベオグラードや、コソボ、モンテネグロの軍事施設に限定された攻撃であったが、NATOはセルビア系による民族浄化などの不法行為を根拠にユーゴスラビア全域を攻撃の対象とするようになった。そのため、ユーゴ空爆とも呼ばれることがある。

オリンピックのユーゴスラビア選手団

オリンピックのユーゴスラビア選手団は、1918年のユーゴスラビア王国から2003年のユーゴスラビア社会主義連邦共和国消滅まで存在したいわゆるユーゴスラビアのオリンピック選手団。ユーゴスラビア選手団は、ユーゴスラビア王国時代の1920年アントワープオリンピックから参加し、冬季オリンピックは1924年シャモニー・モンブランオリンピックから参加した。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代には、1984年サラエボオリンピックが開催されている。1990年代に入りユーゴスラビアを構成していた共和国が次々と独立し、それに伴い紛争も激化した。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が国際連合の制裁下に置かれたこの時期に時を同じくしてユーゴスラビアオリンピック委員会の活動が停止したことからユーゴスラビア選手団としての1992年バルセロナオリンピックへの参加は閉ざされた。2003年にユーゴスラビア連邦共和国からセルビア・モンテネグロへ名称が変更されユーゴスラビアの名は消滅した。

コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)

コソボ・メトヒヤ自治州

Аутономна Покрајина Косово и Метохија / Autonomna Pokrajina Kosovo i MetohijaKrahina Autonome e Kosovës dhe Metohis

ユーゴスラビア連邦共和国におけるコソボ・メトヒヤの位置

コソボ・メトヒヤ自治州(コソボ・メトヒヤじちしゅう、セルビア・クロアチア語:Аутономна Покрајина Косово и Метохија / Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija、アルバニア語:Krahina Autonome e Kosovës dhe Metohis)は、セルビア共和国の自治州。1990年の「反官憲革命」のなかでコソボ社会主義自治州の権限を剥奪し、それに代わって設置されたものである。これによってコソボの自治権は1974年以前の旧コソボ・メトヒヤ自治州の状態へと差し戻された。1990年当時、コソボ・メトヒヤはユーゴスラビア社会主義連邦共和国のセルビア社会主義共和国の自治州であったが、ユーゴスラビア崩壊を経て1992年にはユーゴスラビア連邦共和国のセルビア共和国の自治州となった。1999年以降、セルビアはコソボの統治権を失い、2008年にコソボは独立を宣言しコソボ共和国となった。しかしながら、セルビアはコソボを独立国とは認めず、セルビアを構成する自治州と見なし続けている。

サッカーセルビア・モンテネグロ代表

サッカーセルビア・モンテネグロ代表(Фудбалска репрезентација Србије и Црне Горе/Fudbalska Reprezentacija Srbije i Crne Gore)はセルビア・モンテネグロサッカー協会により編成されたサッカーのナショナルチームである。1992年に「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」が崩壊。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア共和国がユーゴスラビアから独立した。以降ユーゴスラビア連邦のうちセルビア・モンテネグロからなる「ユーゴスラビア連邦共和国」が存続したが、2003年に穏やかな連邦制に移行したことにより「セルビア・モンテネグロ」に国名を変更した。

現在は、セルビア・モンテネグロ代表はサッカーセルビア代表とサッカーモンテネグロ代表に分裂している。

以上の点を踏まえ、1992年から2003年まで「ユーゴスラビア代表」として存続したセルビア・モンテネグロ代表と同じ枠組みで選出されるサッカーナショナルチームについても本項目で扱う。1992年以前のユーゴスラビア代表についてはサッカーユーゴスラビア代表を参照のこと。

スロボダン・ミロシェヴィッチ

スロボダン・ミロシェヴィッチ(セルビア語: Слободан Милошевић / Slobodan Milošević、1941年8月20日 - 2006年3月11日)は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア連邦共和国大統領(第3代)、セルビア共和国共産主義者同盟幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。

セルビア

セルビア共和国

Република СрбијаRepublika Srbija

国の標語:不明

国歌:Боже правде / Bože pravde(セルビア語)正義の神

セルビア共和国(セルビアきょうわこく)、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。

首都であるベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで一貫して連邦の首都であった。2006年6月3日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州がコソボ共和国として事実上独立状態にある。

セルビア・モンテネグロ

セルビア・モンテネグロ国家連合

Државна Заједница Србија и Црна Гора Državna Zajednica Srbija i Crna Gora

国歌: スラヴ人よ

セルビア・モンテネグロ(セルビア語: Србија и Црна Гора (СЦГ) / Srbija i Crna Gora (SCG))は、東南ヨーロッパに存在した連邦国家。ユーゴスラビア国家の事実上の最後の体制であり、2003年にユーゴスラビア連邦共和国から改組・改称して発足した。

セルビア・モンテネグロカップ

セルビア・モンテネグロカップ(セルビア語: Куп Србије и Црне Горе у фудбалу)は、セルビア・モンテネグロで行われていたサッカーのカップ戦である。セルビア共和国とモンテネグロ共和国のクラブが参加していたが、モンテネグロ共和国のクラブは一度も決勝戦に進出できなかった。

セルビア・モンテネグロ・プルヴァ・リーガ

プルヴァ・サヴェズナ・リーガ(セルビア語: Prva savezna liga; Прва савезна лига, 英語: First League of Serbia and Montenegro)は、かつて存在したユーゴスラビア連邦共和国及びセルビア・モンテネグロのサッカー最上位リーグである。1992年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国が解体され、国名がユーゴスラビア連邦共和国へ改称された1992-93シーズンから、セルビア・モンテネグロへの改称を経て、2006年にセルビアとモンテネグロに分離された2005-06シーズンまでを述べる。

セルビア共和国 (1992年-2006年)

セルビア共和国

Република СрбијаRepublika Srbija

国歌: Боже правде / Bože pravde(セルビア語)正義の神ヨーロッパにおけるセルビア共和国の位置

セルビア共和国(セルビアきょうわこく、セルビア語:Република Србија / Republika Srbija)は、1990年から1992年までのユーゴスラビア社会主義連邦共和国、1992年から2003年までのユーゴスラビア連邦共和国、2003年から2006年までのセルビア・モンテネグロの構成国である。2006年にモンテネグロがセルビア・モンテネグロ国家連合を離脱し独立国家となったことにより、セルビアも独立国家となった。

セルビア社会主義共和国は1990年、ユーゴスラビア共産主義者同盟の崩壊に伴って、社会主義体制を放棄した。新しい憲法が制定され、その中でセルビアはユーゴスラビアの枠内で民主主義体制をとる共和国であるとされた。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が1992年に解消されたのに伴い、ユーゴスラビアに留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国は、共産主義を放棄し、民主主義に基づく、2国から成る新しいユーゴスラビア連邦を結成することを望んだ。この新しいユーゴスラビアはユーゴスラビア連邦共和国と呼ばれるようになった。セルビア社会主義共和国は1990年より「セルビア共和国」へと改称されていたが、旧共産主義者同盟の政治家らはその後10年間に渡って、ユーゴスラビア共産主義者同盟の下部組織であるセルビア共産主義者同盟を改組したセルビア社会党として政権の座に留まった。セルビアは、その人口および面積でモンテネグロを圧倒しており、事実上、新しいユーゴスラビア連邦において支配的な地位を占めていた。しかし、セルビア共和国とモンテネグロ共和国は、外交等を共通化するほかは、内部的にはそれぞれ独自に機能していた。連邦の政府にはセルビア人と共にモンテネグロ人もいた。

モンテネグロ

モンテネグロ

Crna GoraЦрна Гора

国の標語:なし

国歌:Oj svijetla majska zoro五月の夜明け

モンテネグロは、ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和制国家。首都はポドゴリツァ(旧憲法ではツェティニェ)。ユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体によって成立したユーゴスラビア連邦共和国(1992年-2003年)およびセルビア・モンテネグロ(2003年-2006年)を構成する2つの共和国のうちのひとつ、モンテネグロ共和国であったが、2006年6月3日に独立を宣言した。

南はアドリア海に臨み、北西をクロアチアのドゥブロヴニクとボスニア・ヘルツェゴビナ、北東をセルビアのサンジャク地方、南東をアルバニア、東部をコソボと接する。

ユーゴスラビア

ユーゴスラビアは、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラブ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。

国名として「ユーゴスラビア」を名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年に解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する。(詳細は#国名の項目を参照)。

なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった北マケドニアが現在の国名に改名する2019年までの間、同国の国際連合等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。

その国際的位置から『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と形容される。

ユーゴスラビアカップ

ユーゴスラビアカップは、1947年から1991年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRユーゴスラビア)で開催されたサッカーのカップ戦である。SFRユーゴスラビアを構成したクロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、セルビア社会主義共和国(ヴォイヴォディナ社会主義自治州とコソボ社会主義自治州を含む)、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、マケドニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国のクラブが参加した。

1991-92シーズンの大会名もユーゴスラビアカップと呼ばれていたが、SFRユーゴスラビアの解体により、ユーゴスラビア連邦共和国(FRユーゴスラビア)を構成したセルビア共和国とモンテネグロ共和国のクラブによって争われるFRユーゴスラビアカップに改称された。

国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧

本項目は国家承認を得た国際連合非加盟の国と地域の一覧(こっかしょうにんをえたこくさいれんごうひかめいのくにとちいきのいちらん)である。

国際連合プレヴラカ監視団

国際連合プレヴラカ監視団(こくさいれんごうプレヴラカかんしだん、英語: United Nations Mission of Observers in Prevlaka, UNMOP)は、クロアチアとユーゴスラビア連邦共和国の境界にあたるプレヴラカ半島に展開した国際連合平和維持活動。1996年1月15日の国際連合安全保障理事会決議1038に基づき設立された。

国際連合保護軍

国際連合保護軍(こくさいれんごうほごぐん、United Nations Protection Force,UNPROFOR)は、ユーゴスラビア紛争において旧ユーゴスラビア領域に展開した国際連合平和維持活動。1992年2月21日の国際連合安全保障理事会決議743に基づき設立された。

当初任務はクロアチアにおけるクロアチアとセルビア人勢力との停戦監視および国連保護区(UNPA)の非武装化・治安維持にあたった。1992年6月29日の国際連合安全保障理事会決議761により人道支援物資の供給のため、サラエボ空港への展開も開始している。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の拡大に伴い、ボスニア・ヘルツェゴビナ域内にも展開を行なった。

1992年12月からは、ユーゴスラビア連邦共和国のマケドニア共和国にも予防展開を行なっている。その後、1995年3月に改編して国際連合クロアチア信頼回復活動(UNCRO)、ボスニア・ヘルツェゴビナの国際連合保護軍、マケドニアの国際連合予防展開軍(UNPREDEP)に分離した。

デイトン合意に基づき、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける治安維持は、北大西洋条約機構中心の和平履行部隊(IFOR)が担当することとなり、UNPROFORは1995年12月20日をもって任務を移行させている。

連邦

連邦(れんぽう、federation)とは、2つ以上の国(州)が1つの主権の下に結合して形成する国家形態である。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビアの構成国 ユーゴスラビアの旗
ユーゴスラビア 43年 民主連邦 46年 連邦人民共和国 63年 社会主義連邦共和国 92年 連邦共和国 03年
クロアチア 43年 人民共和国 63年 社会主義共和国 90年 共和国 91年   (独立)
スロベニア 人民共和国 社会主義共和国 共和国 (独立)
セルビア 人民共和国 社会主義共和国 共和国 03年
ボスニア・ヘルツェゴビナ 人民共和国 社会主義共和国 共和国 92年 (独立)
マケドニア 人民共和国 社会主義共和国 共和国 91年   (独立)
モンテネグロ 人民共和国 社会主義共和国 共和国 03年
コソボ   45年 自治州(旧) 74年 社会主義自治州 自治州
ヴォイヴォディナ 自治州(旧) 社会主義自治州 自治州

†2003年にセルビア・モンテネグロに移行

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