ヒエラティック

ヒエラティック: Hieratic)または神官文字(しんかんもじ)とは、ヒエログリフデモティックと並んで古代エジプトで使われた3種の文字のうちの1つであり、ファラオの時代を起源としてエジプトとヌビアで使用されていた筆記体の書記体系である。

ヒエラティック
Prisse papyrus
Prisse Papyrusの一部(フランス国立図書館所蔵)
ヒエラティックで書かれている
類型: アブジャド (表語文字の要素も持つ)
言語: エジプト語
時期: 紀元前3000年頃-プトレマイオス朝時代-紀元後3世紀
親の文字体系:
エジプトヒエログリフ
  • ヒエラティック
子の文字体系:

デモティック
  → コプト文字
  → メロエ文字
    → 古ヌビア語

ビブロス文字
姉妹の文字体系: 筆記体ヒエログリフ
Unicode範囲: 割り当てなし
ISO 15924 コード: Egyh
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概要

ヒエラティックはヒエログリフの体系と並行して発達し[1]、両者には密接な関係がある。ヒエラティックは主にの刷毛を用いてインクで書かれ、書記官 (scribeたちは時間のかかるヒエログリフを使わずに素早く書くことができた。「ヒエラティック」(hieratic)という言葉はギリシア語の語句γράμματα ἱερατικάgrammata hieratika; 「神官の筆記」)に由来している。この語句はアレクサンドリアのクレメンスが紀元2世紀に初めて用いたもので[2]、この時期にはヒエラティックは宗教的なテクストのみに使用されていたためそう呼んだ。紀元前660年以降、世俗的な書き物ではデモティックが使われるようになっていたと見られている。

発達

ヒエラティックはエジプト原始王朝時代に初めて用いられ、より正式なヒエログリフと並行して発達した。ヒエラティックをヒエログリフの「派生物」と見るのは誤りである。エジプトの最初期のテクストはインクと筆により生み出されたものであり、その記号がヒエログリフの派生物であることを示す兆候はない。石に刻まれた真に記念碑的なヒエログリフはエジプト第1王朝になるまで出現せず、この時期には既にヒエラティックは書記官の実務として確立していた。従って、これら2つの筆記法は1つの線上にあるのではなく、関連しあい、並行して発達したものなのである[1]

ヒエラティックは王朝時代全体を通じて使われ、グレコ・ローマン時代になっても使用され続けた。紀元前660年以降、デモティック(そして後にはギリシア文字)が世俗的な書き物の大半でヒエラティックに取って代わったが、ヒエラティックはさらに幾世紀もの間、少なくとも紀元3世紀までは聖職者階級によって使われていた。

Hieratique
ヒエログリフとヒエラティックの比較

用途と素材

Heratic script limestone
大宰相カイ宛ての4通の公式な手紙のうち1通を ヒエラティックで石灰岩オストラコンに書写したもの

その長い歴史の大半において、ヒエラティックは行政文書、計算書、法的文書、書簡などのみならず、数学、医学、文学、宗教などのテキストを書くのにも用いられた。デモティック(後にはギリシア文字)が行政用の主要な書体となったグレコ・ローマン時代には、ヒエラティックの使用は主に宗教的なテクストのみに限られるようになった。ヒエラティックは日常生活で用いられる書体であったため、エジプトの歴史を通じ概してヒエラティックはヒエログリフより遥かに重要な位置を占めた。ヒエラティックは生徒に最初に教えられる書記体系でもあり、ヒエログリフの知識はさらなる訓練を受けた少数者のみのものであった[3]。事実、元のヒエラティックのテクストを読み間違えたために生じたヒエログリフのテクストの誤りが発見されるということがしばしばあった。

ほとんどの場合、ヒエラティックは葦の刷毛[注釈 1] を用いてパピルス、木材、もしくは石か陶器の破片(オストラコン)にインクで書かれた。デイル・エル・メディーナの遺跡で数千個の石灰岩のオストラコンが発見され、エジプトの普通の労働者たちの生活の詳細な様子が明らかになった。パピルス、石、陶片、木材の他に、革製の巻物に書かれたヒエラティックのテクストも存在したが、ほとんど残存していない。また、布、特にミイラ化に用いられた亜麻布に書かれたヒエラティックのテクストも存在する。石に彫られたヒエラティックのテクストもあり、「刻まれたヒエラティック」(lapidary hieratic)という変種として知られている。これらは第22王朝石碑では特に一般的である。

第6王朝後期には、ヒエラティックは楔形文字のようにしてスタイラスを用いて粘土板に刻まれることもあった。およそ500ほどのそうした粘土板がアイン・アシル(バラット)の地方の統治者の宮殿から[4]、またアイン・アル=ガザリンの遺跡からも1つだけ発見されており、両方ともダクラ・オアシスに位置する[5]。粘土板が作られた時代には、ダクラはパピルスの生産地から遠かったのである[6]。これらの粘土板には目録、名前のリスト、計算書、および50通ほどの手紙が書かれていた。これらの手紙のうち多くは宮殿内や地方の集落内でやり取りされたものであったが、オアシスの他の村から統治者へと送られたものもあった。

特徴

Scribe's exercise tablet 1
アメンエムハトの教訓』からの抜粋が書かれた練習用の板。エジプト第18王朝アメンホテプ1世治世下、紀元前1514-1493年頃。「自分に従属する者全てを警戒せよ……兄弟を信じるな、友と懇意にするな、親友を作るな。」と書かれている。

ヒエラティックは、筆記体ヒエログリフとは異なり「常に」右から左へと読む。当初はヒエラティックは縦横どちらにも書かれていたが、第12王朝以降(特にアメンエムハト3世の治世下に) 横書きが標準となった。

ヒエラティックはその筆記体としての性質と、多くの文字で合字を用いることとがよく知られている。また、ヒエラティックではヒエログリフよりも遥かに標準化された正書法を用いる――ヒエログリフにより書かれるテクストではしばしば装飾的用途や宗教的な気遣いといったテクスト外の問題を考慮に入れなければならなかったが、そのような心配は税金の領収書のようなものには存在しなかった。ヒエラティック特有の記号も存在するが、エジプト学者たちはそれらと等価なヒエログリフ形を転写や植字のために考案した[7]。多くのヒエラティックの文字は、似た記号が簡単に見分けられるよう区分符号的なものを有していた。特に複雑な記号は1画で書くことが可能であった。

ヒエラティックはいつの時代にあっても2つの形態に分かれて現れることが多い。一方は合字が多用された筆記体の事務用書体(businesshand)であり、行政文書に用いられた。もう一方は字幅の広いアンシャル体に似た写字生書体(bookhand)で、文学、科学、宗教などのテクストに用いられた。両者は著しく異なったものとなる場合も多かった。とりわけ手紙では素早く書くために非常に大きく崩した書体が用いられ、定型句には多数の略号が用いられることも多く、速記に近いものであった。

C+B-Egypt-Fig2-LetterDevelopment
ヒエラティックからデモティック

「特異なヒエラティック」(Abnormal Hieratic)として知られる、大きく崩されたヒエラティックの書体が第20王朝後半から第26王朝初期にかけてテーベで用いられていた[8]。これは上エジプトの行政文書で用いられていた書体から派生したもので、法的文書、借地契約、手紙などのテクストに主に用いられていた。こうした種類の筆記は第26王朝時代に、下エジプトの書記官の流儀であったデモティックに取って代わられ、この時代にデモティックは再統一されたエジプト全体の標準的な行政用書体として確立した。

影響

ヒエラティックは他の多数の書記体系にも影響を与えた。最も明白な例は、その直接の後継であるデモティックへの影響である。メロエ文字のデモティック書体や、コプト文字古ヌビア語で借用して用いられたデモティック文字などもこれと関連している。

ナイル川流域以外の地域では、ビブロス文字で使われた記号の多くはエジプト古王国のヒエラティックから借用されたもののようである[9]。初期のヘブライ文字エジプトの数字を用いていたことも知られている[10]

ヒエラティック・フォントのプロジェクト

Hieratic Font Comparison
同じテクストの、基本的なフォントセット(上)と発展的なフォントセットの比較

ヒエログリフが早い時期にフォント (fontsが作られ組版されるようになり一般化したのに対し、筆記体の書記体系であるヒエラティックの組版は難しいことが分かった。1997年に、世界古典文明史研究所の教授であったシェルドン・ゴスリンが、ヒエラティックの各記号の構成要素を一筆ごとに分割するという新しいアプローチを考案した。このアプローチは漢字を体系化する伝統的な手法から着想されたものであった。新エジプト語の教材の一部として出版されたのがこの新アプローチを導入した最初の出版物である[11]。それから間もなく、ゴスリン教授はヒエラティック・フォントのプロジェクトを立ち上げ、ヒエラティックの参考資料シリーズの一部として最初のリリースを行った[12]

ヒエラティック・フォント・プロジェクトには多くの目的がある。エジプトの筆記体の研究を容易にすること、書体の分析と比較のための科学的ツールを供給すること、出版物にヒエラティック書体を掲載するための標準的なフォントセットを作り出すことなどである。2001年現在までに作り出されたフォントは既に幅広い手書きスタイルを再現できる。12の基本的なストロークと、同数の関連するストロークの旋回があり、よって各記号は数値コードに還元でき、これはまた最も蓋然性のある筆順を表すことにも役立つ。右図は同じテクストの2つのバージョンを示している[13]

脚注

注釈

  1. ^ ローマの属州時代には葦のペンcalami)もまた用いられた。

出典

  1. ^ a b Goedicke 1988:vii–viii.
  2. ^ Goedicke 1988:vii; Wente 2001:2006. The reference is made in Clement's Stromata 5:4.
  3. ^ Baines 1983:583.
  4. ^ Soukiassian, Wuttman, Pantalacci 2002.
  5. ^ Posener-Kriéger 1992; Pantalacci 1998.
  6. ^ Parkinson and Quirke 1995:20.
  7. ^ Gardiner 1929.
  8. ^ Wente 2001:210. See also Malinine [1974].
  9. ^ Hoch 1990.
  10. ^ Aharoni 1966; Goldwasser 1991.
  11. ^ Gosline 1997.
  12. ^ Gosline 1998.
  13. ^ Gosline 2001.

参考文献

  • Aharoni, Yohanan (1966). “The Use of Hieratic Numerals in Hebrew Ostraca and the Shekel Weights”. Bulletin of the American Schools of Oriental Research 184 (184): 13–19. doi:10.2307/1356200.
  • Baines, John R. (1983). “Literacy and Ancient Egyptian Society”. Man: A Monthly Record of Anthropological Science 18 (new series): 572–599. オリジナルの2006年10月9日時点によるアーカイブ。.
  • Betrò, Maria Carmela (1996). Hieroglyphics: The Writings of Ancient Egypt. New York; Milan: Abbeville Press (English); Arnoldo Mondadori (Italian). pp. 34–239. ISBN 0-7892-0232-8.
  • Gardiner, Alan H. (1929). “The Transcription of New Kingdom Hieratic”. Journal of Egyptian Archæology 15 (1/2): 48–55. doi:10.2307/3854012.
  • Goedicke, Hans (1988). Old Hieratic Paleography. Baltimore: Halgo, Inc..
  • Goldwasser, Orly (1991). “An Egyptian Scribe from Lachish and the Hieratic Tradition of the Hebrew Kingdoms”. Tel Aviv: Journal of the Tel Aviv University Institute of Archaeology 18: 248–253.
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  • Gosline, Sheldon (2001). Late Egyptian Letter: Gardiner Signs A1-D60. Warren Center: Shangrila Publications.
  • Janssen, Jacobus Johannes (2000). “Idiosyncrasies in Late Ramesside Hieratic Writing”. Journal of Egyptian Archæology 86: 51–56. doi:10.2307/3822306.
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  • Hoch, James E. (1990). “The Byblos Syllabary: Bridging the Gap Between Egyptian Hieroglyphs and Semitic Alphabets”. Journal of the Society for the Study of Egyptian Antiquities 20: 115–124.
  • Möller, Georg Christian Julius (1927–1936). Hieratische Paläographie: Die aegyptische Buchschrift in ihrer Entwicklung von der Fünften Dynastie bis zur römischen Kaiserzeit (2nd ed.). Leipzig: J. C. Hinrichs’schen Buchhandlungen. 4 vols.
  • Möller, Georg Christian Julius (ed.) (1927–1935). Hieratische Lesestücke für den akademischen Gebrauch. (2nd ed.). Leipzig: J. C. Hinrichs’schen Buchhandlungen. 3 vols.
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  • Parkinson, Richard B.; Stephen G. J. Quirke (1995). Papyrus. London: British Museum Press.
  • Posener-Kriéger, Paule (1992). “Les tablettes en terre crue de Balat”. In Élisabeth Lalou (ed.). Les Tablettes à écrire de l'Antiquité à l'époque moderne. Turnhout: Brepols. pp. 41–49.
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  • Verhoeven, Ursula (2001). Untersuchungen zur späthieratischen Buchschrift. Leuven: Uitgeverij Peeters and Departement Oriëntalistiek.
  • Wente, Edward Frank (2001). “Scripts: Hieratic”. In Donald Redford (ed.). The Oxford Encyclopedia of Ancient Egypt. Oxford, New York, and Cairo: Oxford University Press and The American University in Cairo Press. pp. 206–210. Vol. 3.
  • Wimmer, Stefan Jakob (1989). Hieratische Paläographie der nicht-literarischen Ostraka der 19. und 20. Dynastie. Wiesbaden: Harrassowitz Verlag.

関連項目

外部リンク

ISO 15924

ISO 15924(英語: Codes for the representation of names of scripts, フランス語: Codes pour la représentation des noms d’écritures)は、ISOの文字体系(用字系)の略号を定めた規格。4文字のアルファベットと3桁の数字の2種類がある。

アルファベットの略号は、ISO 639-2のBコードに由来している(例: グジャラーティー; ISO 639 guj, ISO 15924 Gujr)。

アーメス

アーメス(英語:Ahmes、生没年不詳)は、エジプト第2中間期の第12王朝、アメンエムハト3世の時代に活躍した古代エジプトの書記官。エジプト数学に関していち早く貢献したとされる。なお、本名はアフモセ(Ahmose)である。

紀元前1650年前後にヒエラティックで書かれた数学文書『アーメス・パピルス(リンド数学パピルスとも)』を筆写した。

エジプト数学

エジプト数学(エジプトすうがく、Egyptian mathematics)とは、紀元前3000年から紀元前300年頃の古代エジプトにおいて、主にエジプト語を用いて行われた数学全般を指す。

エジプト文字

エジプト文字(エジプトもじ)とは、エジプト語の表記に用いられたヒエログリフ、ヒエラティック、デモティック、コプト文字のうち、共通の表語・表音体系を持ち互いに系統関係にあると考えられる前三者の総称。

エジプト語

エジプト語(エジプトご)とは、古代エジプト時代からイスラームの征服によってエジプトがアラブ化されるまでの間エジプトで用いられていた言語。アフロ・アジア語族に属する。ヒエログリフやそれを崩した文字、コプト語時代はコプト文字で書かれた。現在はコプト語が主として典礼言語として用いられており、数家庭のみこれを母語として伝承している。

最も古いエジプト語で記された記録は、紀元前3200年頃のもので、これは書かれた人間の言語の記録としても最古のものに属する。コプト語は17世紀頃まで日常言語として使用する話者が存在していたが、それ以降はエジプトにおける日常語はアラビア語エジプト方言に完全に取って代わられた。しかし、上エジプトの隔絶地に19世紀頃まで話者が存在していたという研究者もいる。

エーベルス・パピルス

エーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)は、紀元前1550年頃に書かれたエジプト医学パピルスである。古代エジプト医学について記したパピルスとしては、最も古く、最も重要なものである。1873年から1874年の冬に、ルクソールでゲオルグ・エーベルスによって購入された。現在はドイツのライプツィヒ大学図書館に収蔵されている。

ガーディナーの記号表

ガーディナーの記号表(英語: Gardiner's Sign List)はエジプト学者アラン・ガーディナーにより編纂された一般的なヒエログリフのリストである。古代エジプトのヒエログリフ研究における標準的なリファレンスであると考えられている。

ガーディナーはヒエログリフの最も一般的な形のみをリストにしたが、広範囲のサブカテゴリや、また多くのヒエログリフの縦書き・横書き双方での形も取り入れている。実際のテクストのブロックを読む補助とするために、大きさによる字形のバリエーションも記載した。(ウォーリス・バッジのリファレンスには約1000のヒエログリフが50ページにわたりリストアップされているが、大きさによるバリエーションには触れていない。)

ガーディナーが取り入れた他のサブカテゴリには略号や個人的な形、またパピルス、特に死者の書に用いられるものの完全なサブセットがある。

クフ王の船

クフ王の船(クフおうのふね、通称「太陽の船」)とは、1954年および1987年にギザの大ピラミッドの付近で発見された2隻の船である。クフ王の船は紀元前2500年頃、古代エジプト・古王国時代第4王朝のファラオであったクフのために造られたとされている。

デモティック

デモティック(Demotic)または民衆文字(みんしゅうもじ)は、古代エジプトでエジプト語を表記するのに使われた3種類の文字のうちの1つである。

古代エジプトでは石に刻むためのヒエログリフ(聖刻文字)と筆記用のヒエラティック(神官文字)の両方が並んで発達し、後にヒエラティックを崩した簡略文字であるデモティックが作られたと考えられる。ただし、デモティック書体で木や石に刻んだものも多く残っている。

デモティックは古くは紀元前660年に使われているのが見つかっており、紀元前600年には古代エジプトでは標準的な書体となったと見られている。4世紀にはエジプトでもギリシア文字を基にしたコプト文字が使われており、デモティックはそれ以後使われなくなった。現在見つかっているデモティックの最後の使用例は、紀元451年にフィラエ神殿の壁に刻まれたものである。

ヒエログリフ

ヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)とは、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの1つ。エジプトの遺跡に多く記されており、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられているが、その後読み方は忘れ去られてしまった。19世紀になって、フランスのシャンポリオンのロゼッタ・ストーン解読以降読めるようになった。ロゼッタストーンによるとくずし字もあるとされている。

一般には古代エジプトの象形文字あるいはその書体を指すが、広義にはアナトリア・ヒエログリフ(英語: Anatolian hieroglyphs、ヒエログリフ・ルウィ語の象形文字)、クレタ・ヒエログリフ(英語: Cretan hieroglyphs、Eteocypriot languageの象形文字)、マヤ・ヒエログリフ(英語: Mayan hieroglyphs、マヤ語の象形文字)、ミクマク・ヒエログリフ(英語: Mi'kmaq hieroglyphs、ミクマク語の象形文字)など、他の象形文字に対しても用いられることがある。

ビブロス文字

ビブロス文字(ビブロスもじ、ビブロス音節文字、擬似ヒエログリフ、原ビブロス文字とも)とは、ビブロスで見つかった10の銘文によって知られるようになった未解読の文字体系である。銘文は青銅版やへらの上に刻まれ、石に彫られている。それらはモーリス・デュナンが1928年から1932年にかけて発掘し、1945年に彼の研究論文Byblia Grammataで出版された。従来、銘文の年代は紀元前2千年紀 (おそらく紀元前18世紀から紀元前15世紀の間) と測定されている。

フランシス・ルウェリン・グリフィス

フランシス・ルウェリン・グリフィス(Francis Llewellyn Griffith、1862年5月27日 - 1934年3月14日)は、イギリスの考古学者、エジプト学者。フリンダーズ・ピートリーとともに発掘を行い、筆記体ヒエラティック、デモティック、メロエ文字などの解読を行った。グリフィスはオックスフォード大学の初代エジプト学教授だった。

マニュエル・ド・コダージュ

マニュエル・ド・コダージュ(仏: Manuel de Codage; 略号MdC)とは、ヒエログリフのテクストの字訳のための標準体系である。

モスクワ数学パピルス

モスクワ数学パピルス(モスクワすうがくパピルス、Moscow Mathematical Papyrus)は、古代エジプトの数学文書。エジプト学者ウラジーミル・セミョーノヴィチ・ゴレニシチェフ(Владимир Семёнович Голенищев, Vladimir Goleniščev)が1893年にエジプトからロシアに持ち帰った。もとはテーベ(現・ルクソール)付近のネクロポリス、ドゥラ・アブ・アル=ナーガ(Dra Abu el-Naga)にあった。ゴレニシチェフが当初所有していたことから ゴレニシチェフ数学パピルス(Golenischev Mathematical Papyrus)とも呼ばれる。その後1911年にモスクワのプーシキン美術館に他の古代エジプト文物とともに寄贈され、今もそこにある。4676番という所蔵番号からモスクワ4676パピルスとも呼ばれる。

ヒエラティックで書かれた古文書であり、エジプト第11王朝時代のものとされている。長さ約5m50cm、幅は4cmから7.5cmで、ソビエト連邦の東洋学者ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・シュトルーヴェ(Vasily Vasilievich Struve) が1930年、25の数学問題とその解法ごとに切断した。リンド数学パピルスと共に古代エジプトの数学文書として有名である。モスクワ数学パピルスの方が古いが、リンド数学パピルスの方が大きい。

リンド数学パピルス

リンド数学パピルス(リンドすうがくパピルス)とは、古代エジプトの数学文書であり、紀元前1650年前後のものである。名前の由来はスコットランドの弁護士・古物研究家であるアレグザンダー・ヘンリー・ラインド(Alexander Henry Rhind; 以下、リンドと呼ぶ、1833年7月26日 – 1863年7月3日)からである。アーメス(アフメス)という書記官が筆写したことから、「アーメス・パピルス」とも呼ばれる。このパピルスは、モスクワ数学パピルスと共に古代エジプト数学パピルスの好例として知られる。

ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字

原シナイ文字(げんシナイもじ)は、シナイ半島のサラービート・アル=ハーディム (アラビア語: سرابت الخادم Sarābīṭ l-ḫādim) で発見された、青銅器時代中期 (紀元前2000年-紀元前1500年) の年代と推定される少数の刻文に使われている文字を指す。

最古の「原シナイ文字」刻文は、早くて紀元前19世紀、遅くて紀元前16世紀のものと推定される。「主な議論は早い時期である1850BCごろか、遅い時期である1550BCごろかで争われている。どちらの時期をとるかによって、原シナイ文字と原カナン文字のどちらが古いか、そこからの帰結として音素文字がエジプトとパレスチナのどちらで生まれたかが決定される」。青銅器時代の「原シナイ文字」およびさまざまの「原カナン文字」の刻文資料はわずかな量のものしか存在しない。青銅器時代が崩壊し、レヴァント地方に新しいセム系の王朝が勃興して、はじめて鉄器時代のフェニキア文字の直接の祖先である「原カナン文字」(ビブロス刻文)が現れる。

いわゆる「原シナイ文字」は、1904年から1905年にかけての冬にシナイ半島でフリンダーズ・ピートリー夫妻が発見した。これに加えて、紀元前17世紀から15世紀のものとされるさまざまな短い「原カナン文字」刻文がカナンで発見された。より新しくは、1999年にen:John Darnellとen:Deborah Darnellが中エジプトでいわゆるワディ・エル・ホル文字(ワディエルホルもじ、英語:Wadi el-Hol script)を発見した。紀元前19世紀から紀元前18世紀頃のものと推定される。

古代エジプト

古代エジプト(こだいエジプト、英: Ancient Egypt)は、古代のエジプトに対する呼称。具体的にどの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和制ローマによって滅ぼされるまでの時代を扱う。

古代エジプト文学

古代エジプト文学(こだいエジプトぶんがく)は、古代エジプトの王朝時代からローマの属州であった時代の終わりまでにかけてエジプト語で書かれた、エジプト文学の源流をなす文学である。シュメール文学と共に、世界最古の文学と考えられている。ただし、「古代エジプトの文学」という場合、通常の「文学」より広い意味を有し、文字で記されたテクスト全般を「文学」として扱うことが多く、ピラミッドの内部や棺の内側に記される宗教文書も含めて研究されてきた経緯がある。

エジプト文字(ヒエログリフとヒエラティックの双方)は紀元前4千年紀後半、先王朝時代のエジプトの後期に出現した。紀元前26-22世紀のエジプト古王国の時代までには、葬礼文書 、書簡文学や手紙、宗教的な讃歌や詩、傑出した高位の行政官の経歴を列挙する自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。エジプトの物語文学が生まれるのは紀元前21-17世紀のエジプト中王国初期になってからである。これはリチャード・パーキンソンによれば、知的な書記官階級の勃興、個人に関する新しい文化的感受性、先例のない高い識字水準、文字資料へのアクセスなどの結果としてもたらされた「メディア革命」であった。しかしながら、識字率は全人口の1%にも満たなかった可能性がある。従って、文学の創造は選良によるものであり、官庁やファラオの王宮に付随した書記官階級に独占されていた。ただし、古代エジプト文学がどの程度王宮の社会政治体制に依存していたかについては現代の学者の間でも完全な意見の一致は得られていない。

エジプト中王国の音声言語である中期エジプト語が紀元前16-11世紀のエジプト新王国期には古典言語となり、この時期に新エジプト語として知られる地方語が初めて書き物に出現した。新王国の書記官たちは中期エジプト語で書かれた数多くの文学テクストを正典として写本し、中期エジプト語は神聖なヒエログリフのテクストを口誦するための言語であり続けた。「セバイト」(教訓)や伝説的な物語など、中王国時代のジャンルの一部は新王国でも一般的であり続けたが、預言的なテクストのジャンルは紀元前4-1世紀のプトレマイオス朝時代になるまで復興しなかった。人気のある物語としては『シヌヘの物語』や『雄弁な農夫の物語』、重要な教育的テクストとしては『アメンエムハト一世の教訓』や『愛国者の教訓』などがある。新王国時代までには、神聖な神殿や墓の壁に記された記念の落書きが独自の文学ジャンルとして繁栄するようになっていたが、これらにも他のジャンルと同様の定型的な表現が用いられていた。正当な著者を認知することは一部のジャンルでしか重要とされておらず、「教訓」ジャンルのテクストでは偽名が用いられ、有名な歴史的人物に偽って帰されていた。

古代エジプト文学は幅広い媒体によって保存されてきた。パピルスの巻物や束、石灰岩や陶磁器のオストラコン(破片)、木の筆記板、石造の記念建築、コフィン・テクスト(石棺に書かれた文章)などである。このような形で保存され、現代の考古学者たちにより発掘されたテクストは、古代エジプト文学の小さな部分を見せてくれるに過ぎない。ナイル川の氾濫原にあたる地域は湿潤な環境がパピルスとインクによる文書の保存に適さなかったため、あまり伝わっていない。他方で、数千年間に亘り埋もれ、隠れていた文学がエジプト文明辺縁の乾燥した砂漠地帯の集落から発見されている。

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