ハワイ王国

ハワイ王国
Aupuni Mōʻī o Hawaiʻi
Kingdom of Hawaiʻi
ハワイの歴史#先史時代 1795年 - 1893年 ハワイ共和国
ハワイの国旗
ハワイの国章
(国旗) (国章)
国の標語: Ua Mau ke Ea o ka ʻĀina i ka Pono
ハワイ語 : 大地の生命は正義によって保持される)
国歌: ハワイ・ポノイ
ハワイの位置
公用語 ハワイ語
英語
首都 ラハイナ(1845年以前)
ホノルル(1845年以降)
国王
1795年 - 1819年 カメハメハ1世
1891年 - 1893年リリウオカラニ
面積
16,703km²
人口
1832年130,313人
変遷
成立 1795年
ハワイ諸島統一1810年
ハワイ臨時政府成立1893年1月17日
ハワイ共和国成立1894年7月4日
アメリカにより併合1898年8月12日
通貨アメリカ合衆国ドル
ハワイ・ドル
ハワイの位置

ハワイ王国(ハワイおうこく、ハワイ語: Aupuni Mōʻī o Hawaiʻi英語: Kingdom of Hawaiʻi)は、1795年から1893年までハワイ諸島に存在した王国である。1893年サンフォード・ドールなどアメリカ移民による革命アメリカ合衆国傀儡国家として名目上共和制ハワイ共和国となり、1898年にはハワイ準州 (Territory of Hawaiiとして併合されて消滅した。

歴史

カメハメハ王朝

ハワイ王国は初め、初代国王カメハメハ1世(カメハメハ大王)とその子孫によって統治された。カメハメハ2世カメハメハ3世はカメハメハ1世の息子である。

カメハメハ1世は白人から入手した武器を利用して領土を広げ、1795年にハワイ王国の建国を宣言した後、1810年に全ハワイ諸島を統一した。これ以前、ハワイはそれぞれの地方ごとに有力者が統治していた。

カメハメハ2世の治世の1820年キリスト教アメリカン・ボードから派遣された宣教師が相次いでハワイを訪れた。これはちょうどその頃生じていた宗教的な混乱と時期が重なり、ハワイのキリスト教化が進んだ一方、ハワイの古くからの宗教は衰退した。

カメハメハ3世の治世の1840年憲法が制定され、近代国家としての体裁が整うと各国が相次いでハワイ王国を承認し、名実ともに独立国家として認められるようになった。憲法制定に当たっては、特にイギリスを手本にしたとされている。この後もハワイ王国は親英外交を行った。

カメハメハ家による統治は、1872年カメハメハ5世の崩御によって終わった。カメハメハ5世は王女パウアヒを呼び出して王冠を託したが、彼女にはすでに家庭があり、即位を拒否した。カメハメハ5世は代わりの後継者を指名する前に崩御した。

選挙君主制

カメハメハ5世の死後、ハワイ王国の司法府は国王選挙の実施を宣言し、1873年に議会での選挙でルナリロが国王に選ばれた。

カラカウア王朝

ルナリロもまたカメハメハ5世と同じように後継者を指名せず、即位から1年1ヶ月後に肺結核で崩御したため、ハワイ王国の司法府は再び国王選挙の実施を宣言した。この選挙は激しい中傷合戦となり、ハワイにおいてもっとも汚らしい選挙といわれた。選挙の結果、1874年にカラカウアが国王に選ばれた。治世5年の時、カラカウアはイオラニ宮殿を建設し、主殿が完成した1882年に宮廷を移動した。

王位継承に関する混乱を防ぐため、あらかじめ妹のリリウオカラニを後継者に指名した後、カラカウア王は1891年に崩御した。 同年、兄王の遺言に従いリリウオカラニはハワイ女王として即位し、同時に末妹リケリケの長女カイウラニの立太子が行われた。

滅亡

アメリカ合衆国からの入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的にも力をつけはじめると、より親米的な政治を求める声が特に経済界から強くなった。1887年クーデターが起こり、カラカウアは修正憲法(銃剣憲法)の成立を承認せざるを得なくなった。この「銃剣憲法」によって国王の権限は制限され、枢密院や内閣の政治的影響力を高めた。選挙権についても、アジア系移民から一切の投票権が剥奪された他、先住ハワイ人も投票権に収入や資産などの一定の基準を設けたことで、多くの人々が選挙権を剥奪された。一方で、ハワイ人エリートや富裕なアメリカ系・ヨーロッパ系移民は選挙権を所持したままであり、政治的発言力が劇的に強まった。結果として、「銃剣憲法」によりハワイ王室と大多数のハワイ人は政治力を失い、白人農場主らを中心とする共和派が王国の実権を手にした。ハワイ王国は対米従属を余儀なくされた。ハワイ王国の滅亡はこれに始まる。

1893年1月16日、アメリカ合衆国と関連の深いサトウキビを扱う業者らがさらに親米的な政権を打ち立てるため、政権の転覆を計画した。アメリカ海軍の軍艦ボストンは、首謀者サンフォード・ドールロリン・A・サーストンを保護する名目でホノルルに到着し、リリウオカラニは幽閉状態となった。1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政の廃止を宣言した。

1894年7月4日、ドールはハワイ共和国の成立を宣言し、同国の最初で最後の大統領となった。1895年1月に王党派による最後の大規模な武力蜂起が起きたが鎮圧され、1月16日にはリリウオカラニも私邸から大量の武器が発見されたという理由で逮捕され、廃位された。ドールはハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作り、この条約が成立したときハワイ準州の初代知事に任命された。

アメリカ合衆国ハワイ準州

1898年8月12日、時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーはハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言し、同日イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国国旗が降ろされて星条旗が揚げられた。この時、古来のハワイ住民らは悲しみの声をあげたという。これによりハワイはアメリカ合衆国の準州として編入され、王国の約100年間の歴史は完全に幕を閉じた。

アメリカ合衆国ハワイ州

ハワイは準州となった後も、表向きにはアメリカ合衆国の領土として扱われることはなかったが、名実ともにアメリカ合衆国領へと変貌していった。これは準州知事が設置されていながら、アメリカ合衆国自治領という形がとられたためであった。1959年8月21日には完全なアメリカ合衆国領としてハワイ州が成立し、今ではアメリカ合衆国50番目の州として認知されている。

1993年11月、アメリカ合衆国議会はハワイ併合に至る過程が違法だったと認め、公式に謝罪する両院合同決議をした[1]。「ハワイ憲法制定会議2008」はウェブサイト(HAWAII - INDEPENDENT & SOVEREIGN)を開設している。

政治

国王

Kamehameha I

カメハメハ1世(初代、在位:1795年 - 1819年

Kamehamehaii

カメハメハ2世(第2代、在位:1819年 - 1824年

Kamehameha III, retouched photo by J. J. Williams (PP-97-7-011)

カメハメハ3世(第3代、在位:1825年 - 1854年

Kamehameha IV (PP-97-8-006)

カメハメハ4世(第4代、在位:1854年 - 1863年

Kamehameha V, retouched photo by J. J. Williams

カメハメハ5世(第5代、在位:1863年 - 1872年

Lunalilo, retouched photo by J. J. Williams (PP-98-15-011)

ルナリロ(第6代、在位:1873年 - 1874年

Kalakaua (PPWD-15-4.018)

カラカウア(第7代、在位:1874年 - 1891年

Liliuokalani

リリウオカラニ(第8代、在位:1891年 - 1893年

政治体制

ハワイ王国は1840年の憲法制定により、政治的には立憲君主制をとった。この憲法により、ハワイ王国は国王を元首とし、勅選議員からなる上院と直接選挙による民選議員からなる下院とによって構成する二院制議会を置き、大臣を集めた会議を開いて行政を行い、国王の任命する長官を長とする司法府を置いた。地方行政は国王の任命する知事が管轄した。

外交

日本との関係

ハワイ王国と日本との間には1867年に日布親善協定を締結して外交関係が樹立された後、1868年には日本から民間の第1号移民団153名がハワイに渡った。これは明治元年に相当するため、ハワイ移民のパイオニアである彼らは「元年者」と呼ばれている。ハワイ王国はこの後も日本人移民を積極的に受け入れたため、21世紀の現在でもハワイには日系人が多い。また、当時の東京にはハワイ王国公使が駐在しており、群馬県伊香保温泉にはその別邸も現存している。

1881年、世界一周旅行の最初の訪問国として来日した国王カラカウアは明治天皇に謁見した際、ハワイ王国の安泰のため日本とハワイの連邦化を提案した[2]。その時のカラカウアからの提案は次の通りである。

  • 日本・ハワイの連邦化[2]
  • 日本・ハワイ間のホットライン敷設
  • 日本主導によるアジア共同体の創設
  • カイウラニ王女と山階宮定麿王の縁談[2]
  • 同じ有色人種である日本人のハワイへの移民(当時のハワイは西欧からもたらされた疫病により、原住民の人口が激減していた)

日本政府はアメリカとの対立を避けるため、これらの提案を「良友 睦仁」の御筆の入った親書をもって丁重に断った。しかし、移民の促進に関しては問題がないと考え、1885年には日布移民条約が締結され、官製移民団が組織されるようになった。官製の移民は1885年から1894年まで続き、総計29,339人がハワイに渡った。

1893年のクーデターの際、明治政府は「在留邦人保護」を名目として、巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)、帆走コルベット金剛」をホノルル港へ派遣し、米艦ボストンの真横に投錨して新政権を牽制した。これは王国政府側からの要請であったという説もあり、それを裏付けるかのように東郷は新政権を完全に無視し、リリウオカラニ女王の側近とのみ接触している。

現王室

カワナナコア王朝

リリウオカラニ女王の統治時代、故兄王の妃カピオラニの妹キノイキの婚先であるカワナナコア家に、カラカウア家に次ぐ王位継承権が付与された。女王の姪であるカイウラニ王女の死去により、カラカウア王家は1899年に断絶した。王国時代に定められた王位継承順位に則り、キノイキの長子カハレポウリが王太子を継いだ。しかし、カハレポウリは1908年に死去したため、後継はカハレポウリの長男カラカウア2世が、女王崩御の1917年に継承した。(名目上の)新国王カラカウア2世は幼君のため、叔父のジョナ・クヒオ・カラニアナオレ が摂政兼家長代行となった。1953年に他界したカラカウア2世には子がなく、姉のカピオラニが家長を継いだ。カピオラニの後は世嗣ケリイアオヌイが家長となった。ケリイアオヌイの嫡男が現当主のクヒオである。なお、居城だったイオラニ宮殿は、カピオラニ王女の姪、ケカウリケを中心にボランティア団体イオラニ宮殿友の会が管理・維持を行なっている。

  • 初代(第9代):カラカウア2世(1904年 - 1953年、在位1917年 - 1953年)
  • 第2代(第10代):カピオラニ(1903年 - 1961年、在位1953年 - 1961年)
  • 第3代(第11代):ケリイアオヌイ(1924年 - 1997年、在位1961年 - 1997年)
  • 第4代(第12代):クヒオ(1961年 - 、在位1997年 - )

現家長

旧ハワイ王室は今日もハワイ州民の尊崇を浴している。2017年現在、家長はカピオラニ王女の嫡孫で、元ハワイ州下院議員のクエンティン・クヒオ・カワナナコアである。

脚注

  1. ^ Hawai‘i Statehood 50th Anniversary ハワイ州誕生50周年 ハワイ州観光局(Hawai‘i Tourism Japan:HTJ) ハワイ州観光局
  2. ^ a b c 東京新聞「ハワイの王様 何しにきたの 120年以上前、横浜に」

関連項目

外部リンク

1875年

1875年(1875 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。明治8年。

1879年

1879年(1879 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。明治12年。

1880年代

1880年代(せんはっぴゃくはちじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1880年から1889年までの10年間を指す十年紀。

1885年

1885年(1885 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。明治18年。

1887年

1887年(1887 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。明治20年。

1890年代

1890年代(せんはっぴゃくきゅうじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1890年から1899年までの10年間を指す十年紀。

1891年

1891年(1891 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。明治24年。

1893年

1893年(1893 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。明治26年。

オラメル・ギューリック

オラメル・ヒンクリ・ギューリック(Orramel Hinckley Gulick、1830年10月7日 - 1923年9月18日)は、明治時代の日本で活躍した、アメリカン・ボードのアメリカ人宣教師。O・H・ギューリック,O.H.ギュリキとも表記される。実弟J・T・ギューリックを初め、一族は宣教師を多数輩出している。

カメハメハ1世

カメハメハ1世(Kamehameha I、1758年 - 1819年、生年は諸説あり)はハワイ諸島を初めて統一して1810年にハワイ王国を建国し、初代国王となった人物である。カメハメハ大王の名でも親しまれる。「カ・メハメハ」はハワイ語で「孤独な人」、「静かな人」の意。なお、ハワイ語は文字を持たない言語であった関係で、古い文献などではハメハメハ (Hamehameha) と表記される例も見られる。

ジョンストン島

ジョンストン環礁(Johnston Atoll)は、アメリカ合衆国領の北太平洋の環礁。

ジョン・ギューリック

ジョン・トーマス・ギューリック(John Thomas Gulick、1832年3月13日 - 1923年4月14日)は、アメリカ合衆国の貝類学者・進化生物学者・アメリカン・ボードの宣教師。苗字は「ギュリック」と書かれることもある。ハワイ諸島に固有のカタツムリであるハワイマイマイ類の研究で知られる。

宣教師として清朝後期の中国と明治中期の日本に滞在し、これらの地域でも陸産貝類の研究を行った。日本近代貝類学の礎を築いた平瀬与一郎が貝類研究を始めたのは同志社の博物学教師ゲインズを通じてギューリックのハワイマイマイ類の研究を知ったのがきっかけであったと言われている。

誤解され易いが、ギュリキマイマイ Euhadra eoa gulicki Pilsbry,1928 やギュリキギセル Stereophaedusa addisoni addisoni (Pilsbry,1901) などに献名されているのはジョンの息子アディソン・ギューリック(Addison Gulick:1882-1967)。

同じ時期に日本で活躍した宣教師オラメル・ヒンクリー・ギューリックは実兄

1920年代頃に険悪になりつつあった日米の親善運動の一環として、日本では「青い目の人形」として知られる人形交流を行ったシドニー・ギューリックは甥(ジョンの兄ルーサーの長男)。

ニホア島

ニホア島(Nihoa Island)とは太平洋のハワイ諸島に属する北西ハワイ諸島の島。バード・アイランドとも呼ばれ、ハワイ名は「モク・マヌ(Moku Manu)」。

面積1km2の小さな無人の火山島で、最高地点が273mのミラーズ・ピークで、260mのタナガー・ピークもある。約300m近くの断崖絶壁に取り囲まれており、ゴツゴツとした崖と急な谷が多い。海鳥のコロニーとなっている。

島は無人島だが、紀元後1000年から1700年の間に100人以上の古代ハワイ人が島で暮らしていたと言われ、居住地や農地、宗教的な場所、埋葬洞窟など約80以上の跡地が現在でも残っており、島で幾つか見られる。

島は1788年にジェームズ・コルネットが西洋人として初めてこの島を「発見」したが、コルネットはその後スペインに捉えられ牢獄で気がふれたため、広くはウィリアム・ダグラスが1年後に「発見」したとされている 。1822年にハワイ王国のカアフマヌ女王(副王)が島を訪問し、ハワイの一部として島を併合。1857年にはカメハメハ4世が訪問し、ハワイ王朝の一部として宣言した。1885年にリリウオカラニ女王が200人の取り巻きを連れて、島を訪問している。1909年に他の北西ハワイ諸島の島々と共にアメリカ合衆国内務省の合衆国魚類野生生物局が管轄する国立自然保護区に指定された。

ハワイにおける日本人移民

ハワイにおける日本人移民(ハワイにおけるにほんじんいみん、英語:Japanese settlement in Hawaii)とは、1868年以降、労働者として日本からハワイへ移住していった人びとを指す。1900年までの国や民間企業の斡旋によりやって来た移民を契約移民、以降1908年までの移民を自由移民と呼称する。

ハワイの歴史

ハワイの歴史(ハワイのれきし、英: history of Hawaii)では、50番目にアメリカ合衆国の州として登録されたハワイ州を構成する、ハワイ諸島における歴史を詳述する。

ハワイ併合

ハワイ併合(ハワイへいごう)または米布併合(べいふへいごう、英語: United States Annexation of Hawaii)は、1898年にアメリカ合衆国によって行われたハワイ共和国(布哇共和国、現在のアメリカ合衆国ハワイ州)の併合である。本項では、ハワイを併合するまでの経過とその影響について説明する。

ハワイ先住民

ハワイ先住民 (Native Hawaiians)は、ハワイの先住民およびその子孫である。その起源はハワイに入植したポリネシア人に遡る。

アメリカ合衆国の2000年の国勢調査では、401,162人がハワイ先住民(純血混血問わず)であると自らを認識している が、アメリカ先住民としての括りには入っていない。そのうち140,652人が純血のハワイ先住民と自らを認識している。ハワイ先住民の大半がハワイ州、カリフォルニア州、ネヴァダ州、ワシントンD.C.に居住する。3分の2はハワイに、残り3分の1は他の州に住むが、特にカリフォルニア州に集中している。

ハワイ先住民およびハワイの歴史は一般的に4つの大別される。古代ハワイ、ハワイ王国時代、アメリカ合衆国ハワイ準州時代、ハワイ州時代である。

ハワイ州

ハワイ州

State of HawaiiMokuʻāina ʻo Hawaiʻi

州の愛称: アロハ・ステートThe Aloha State

ハワイ州(英: State of Hawaii [həˈwaɪ.i] ( 音声ファイル) 、ハワイ語: Hawaiʻi)は、太平洋に位置するハワイ諸島にあるアメリカ合衆国の州である。漢字では「布哇」と書く。州都はオアフ島のホノルル市である。アメリカ合衆国50州の中で最後に加盟した州である。

ハワイ島、マウイ島、オアフ島、カウアイ島、モロカイ島、ラナイ島、ニイハウ島、カホオラウェ島の8つの島と100以上の小島からなるハワイ諸島のうち、ミッドウェー環礁を除いたすべての島が、ハワイ州に属している。北西ハワイ諸島の北西端からハワイ諸島の南東端のハワイ島まで、全長1,500マイル (2,400 km) にわたっている。州全体が島だけで構成されることではアメリカ合衆国で唯一の州である。

アメリカ合衆国本土の南西、日本の南東、オーストラリアの北東と、太平洋の中央に位置し、地理的にも民族的にも近いポリネシアでは最も北にある列島で構成されている。その自然の多様な景観、暖かい熱帯性気候、豊富な公共の海浜と大洋に取り囲まれていること、および活火山の活動があることで、観光客、サーファー、生物学者、火山学者などに人気のある目的地になっている。独特の文化がある他に太平洋の中心にあることで、北アメリカやアジアの影響も多く受けている。130万人を超える人口の他に常に観光客やアメリカ軍軍事関係者が滞在している。

日布渡航条約

日布渡航条約 (移民に関する日布条約、日布移住民条約、日布移民条約、日布労働移民条約) とは、ハワイに労働移民した日本人の人権を守ることを目的として1886年に締結された、日本-ハワイ王国間の条約である。この条約により、日本はハワイ王国に対し、裁判における通訳の用意や、日本医師の雇い入れなどを義務付けた。

他言語版

This page is based on a Wikipedia article written by authors (here).
Text is available under the CC BY-SA 3.0 license; additional terms may apply.
Images, videos and audio are available under their respective licenses.