ダビデ

ダビデヘブライ語: דוד‎ Dāwīḏ (ダーウィーズ), ギリシア語: Δαβίδ, ラテン語: David, アラビア語: داود‎ Dāʾūd)は、古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)。ダヴィデダヴィドとも。

羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に就くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間、王として君臨した。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場し、伝統的に『詩篇』の作者の一人とされている。イスラム教においても預言者の一人に位置づけられている。英語の男性名デイヴィッド(David)などは彼の名に由来する。

ダビデ
David ( דָּוִד, דָּוִיד)
イスラエル王
David SM Maggiore
ダビデ像(ニコラス・コルディエ作、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
在位 紀元前1000年 - 紀元前961年

出生 紀元前1040年
ベツレヘム
死去 紀元前961年
イェルサレム
配偶者 ミカル
  アヒノアム
  アビガイル
  マアカ
  ハギト
  アビタル
  エグラ
  バト・シェバ など
子女 アムノン キルアブ アブサロム タマル アドニヤ シェファトヤ イトレアム イブハル エリシュア エリフェレト ネフェグ ヤフィア エリシャマ ベエルヤダ エリフェレト エリモト ソロモン ナタン ショバブ シムア 名不詳の子
王朝 ダビデ朝
父親 エッサイ
母親 不明

旧約聖書による生涯

少年期から即位まで

Jesse Tree Hove
ダビデの父エッサイイングランド:オール・セインツ教会)

イスラエルの最初の王であったサウルは、アマレク人との戦いで主なる神の命令に背き[1][2]、その寵を失った。

神の命をうけたサムエルは新たな王を見出して油を注ぐべく、ベツレヘムエッサイなる人物の元に向かった。そこでサムエルはエッサイの第八子で羊飼いの美しい少年ダビデに目をとめてこれに油を注いだ。その日以降、主の霊はサウルを離れてダビデに激しく臨むようになり、サウルは主から来る悪霊にさいなまれるようになった[3]。そこで家臣たちが竪琴の巧みな者を側に置くように進言し、戦士であり竪琴も巧みなダビデが王のもとに召し出された。ダビデが王のそばで竪琴(ベゲナ)を弾くとサウルの心は安まり気分がよくなった[4]

その頃、サウルとイスラエル人たちはペリシテ人との戦いを繰り返していた。ペリシテ最強の戦士でガト出身のゴリアト(ゴリアテ)はしばしば単身イスラエル軍の前に現れて挑発を繰り返し、イスラエル兵はこれを恐れた。従軍していた兄たちに食料を届けるために戦陣をおとずれたダビデは、ゴリアトの挑発を聞いて奮起し、その挑戦を受けることを決意した。サウルの前にでたダビデはサウルの鎧と武器を与えられて身にまとったが、すぐにこれを脱ぎ、羊飼いの杖と石投げだけを持って出て行った。

ゴリアトはダビデを見ると「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と侮ったが、ダビデは

お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。

と答えた。ダビデが石を投じるとゴリアトの額にめり込み、ゴリアトはうつぶせに倒れた。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリアトの剣を引き抜いてその首を落とした。ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、追撃したイスラエル軍は大いに勝利した。[5]

Osmar Schindler David und Goliath
「ダビデとゴリアテ」(Osmar Schindler、1888)

その後、ダビデは出陣の度に勝利をおさめ、人々の人気を博した。サウルはこれをねたみ、ダビデを憎むようになった。サウルはペリシテ軍の手によってダビデを亡き者にしようとたびたび戦場に送り込んだが、ダビデはことごとく勝利をおさめ、サウルの娘ミカルをめとった。ここにいたってサウルは家臣たちにダビデ殺害の命令を下したが、サウルの息子ヨナタンはダビデを愛していたので、ダビデにこれを告げ、ダビデは死地を逃れた。その後もサウルは幾度もダビデの命を狙ったが、すべて失敗した。

サウルの手を逃れて各地を転々としたダビデであったが、あるとき、エン・ゲディの洞窟に隠れているときにサウルがそこに入ってきた。ダビデの周囲の者たちはサウルを仕留めるように勧めたが、ダビデはこれをせず、ひそかにサウルの上着の裾を切り取った。ダビデは何も気づかずに洞窟を出たサウルに裾を示し、害意のないことを告げた[6]。また、別の機会にサウルがダビデを討つべく出陣したときに、ダビデがサウルの陣内に侵入するとサウルと従者が眠りこけていた。ダビデの従者は再びサウルを討つことを進めたが、ダビデはこれを拒み、王の槍と水差しをもって陣営を出た。ダビデは再びサウルに害意のないことを告げた。

David, Reni (Louvre INV 519) 02
グイド・レーニ『ゴリアテの首を持つダビデ』ウフィツィ美術館 1604年頃

その後、神の寵愛を失っていたサウルはペリシテの軍勢の前に敗れ、息子たちとともにギルボア山に追い詰められた。ヨナタンを含む息子たちは戦死し、サウルは自ら剣の上に身を投じて死んだ[7]。サウルとヨナタンの死を聞いたダビデは衣を引き裂いてこれを嘆いた[8]。ダビデは神の託宣を受けてユダのヘブロンへ赴きそこで油を注がれてユダの王となった[9]

ユダの一族を率いたダビデは、サウルの後を継いだサウルの息子イシュ・ボシェト率いるイスラエルの軍勢と戦いを繰り返した。イシュ・ボシェトは昼寝中に家臣に殺害され、その首がダビデの元にもたらされた。ダビデはイシュ・ボシェトを殺害した2人を殺して木につるした。ここに至ってダビデは全イスラエルの王、指導者になり、エルサレムに進撃してそこを都とした[10]

ダビデ王の治世とその晩年

エルサレムを都としたダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダにあった神の箱をエルサレムに運び上げた。ダビデがヘブロンで即位したのは30歳のときであり、7年6ヶ月の間ヘブロンでユダを治め、33年の間エルサレムでイスラエル全土を統治した[11]。ダビデはペリシテ人だけでなく、モアブ人アラム人エドム人アンモン人も打ち破り、これを配下に収めた[12]

ダビデは晩年、家臣ウリヤ (ヒッタイト)の妻であるバト・シェバが水浴びしているのを見初め、彼女を呼び出し関係を結ぶ。妊娠がばれるとまずいのでウリヤを戦場から連れ戻し、バト・シェバと床に入るように画策する。しかし、これがうまく行かないことを知ると、ウリヤを最前線に追いやり、戦死させた。預言者ナタンはこれを知ってダビデを責めた。ナタンがダビデの犯した罪をたとえ話で語るとダビデは自分のことと思わずに激怒し、「そんなことをした男は死罪だ」といった。ナタンがそれがダビデのことであると明かすと、ダビデは自らの罪を悔いた。神は罰として、バト・シェバから生まれた子供の命を奪った。次にバト・シェバから生まれた子供が次の王になるソロモンである。また、ダビデの長男でアヒノアムから生まれたアムノンが異母妹タマルを犯し、それに怒ったタマルの同母兄で三男のアブサロム(アムノンの異母弟)がアムノンを殺し、やがて父ダビデに対し謀反を起こした。ダビデは一時都エルサレムを追われた。ダビデはなんとかアブサロムの反乱を収めたが、アブサロムはダビデの意に反して家臣によって殺害され、ダビデはアブサロムの死を嘆き悲しんだ[13]

ダビデは、中央集権的君主制を樹立し、傭兵の軍隊を組織した。そして、税を徴収するために人口調査のような改革策をいくつか実施した。これらの改革案が人々に衝撃を与えた。ダビデは、いつの間にか王国を主なる神のものではなく、自分のものとしていた[14]。ユダヤ教の原本成立も、この頃である。

年老いたダビデ王は体が暖まらなかったのでシュネムのアビシャグという美しい娘を傍らに置いて自らの世話をさせた[15]。 そんな折ハギトの子アドニヤがダビデを差し置いて自ら王を名乗るという事件が起こった。ナタンとバト・シェバはこれを聞いてダビデのもとに赴き、息子ソロモンを次の王にするという誓いをたてさせた。祭司ツァドクはソロモンに油を注ぎ、ここにソロモンがイスラエルの3代目の王となった。[16]。ダビデはソロモンに戒めを残して世を去り、「ダビデの町」に葬られた[17]

聖書とダビデ

詩篇

古代からの伝承では、150篇ある詩篇のうち多くがダビデの作であるとされ、73の詩篇の表題にダビデの名が現れる。ただし近代聖書学高等批評的には否定されている。

曾祖母ルツ

ユダヤ教原理主義者には無視されがちであるが、彼はモアブ人の血を引いている。彼の曾祖母であるルツは、『ルツ記』の記述に従えばモアブ人である。当時のイスラエル人と周辺諸民族は共存、通婚していたことを示している。加えて、彼女がモアブ人としてのアイデンティティと宗教的慣習を放棄し、イスラエル人のナオミが信じていた主なる神を受け入れて回心したことが、イスラエルに受容されたことの大きな理由となっていると考えられる(ルツ記1章16~17節を参照)。

イエス伝承におけるダビデ

バビロン捕囚以後、救世主メシア)待望が強まると、イスラエルを救うメシアはダビデの子孫から出ると信じられるようになった。新約聖書では、イエス・キリストはしばしば「ダビデの子」と言及される。

図像

David-icon
聖王ダヴィド(ダビデ)のイコン18世紀ロシア正教会)。

ダビデはトランプのスペードのキングのモデルとされ、フランスのカードでは竪琴を持つダビデの姿が描かれている。

彫刻作品

ルネサンス初期の芸術家に数えられるフィリッポ・ブルネレスキを始め、ドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディ(ドナテッロ)やバルトロメオ・ベッラーノ、アンドレア・デル・ヴェロッキオミケランジェロ・ブオナローティなど数多くの彫刻家が「ダビデとゴリアテ」(『サムエル記』上17章)の伝説を題材に取った彫像『ダビデ像』を建造している。

このうち、ドナテッロやヴェロッキオなど大多数は「右手に剣を携え、刎ね飛ばしたゴリアテの首を足元に転がす威風堂々たる少年の姿」を表した一方、ミケランジェロはそれら従来の情景とは全く異なる「左手に投石器を構えて右手に小石を握り締め、川を挟んで対峙したゴリアテを見据える緊迫した青年の姿」を表した。現在では、ミケランジェロのものがダビデ像の代名詞的存在として広く認知されており、ルネサンス以降のバロック期に名を馳せたジャン・ロレンツォ・ベルニーニもミケランジェロに倣って投石器を構えた青年のダビデ像を残している。

また、裸体でダビデの姿を表したドナテッロのダビデ像(ブロンズ像)が割礼された男性器を持つのに対し、同じく裸体でダビデの姿を表したミケランジェロのダビデ像は割礼されていない男性器を持つ決定的相違があり、これが「イスラエル人否定説(当時のイスラエル文化では男子の割礼は必然儀礼であり、イスラエル人のダビデが包茎である事自体が矛盾している)」「ローマ美術尊重説(ミケランジェロが古代ローマの彫刻技術を研究する中で「成人男子の包茎が美徳とされていた=神から授かった無垢の体を守り続ける」とする当時の風習を知り、それに最大限の敬意を払って自身の作風としていた)」など様々な論争の種となっている。

「ダビデの星」

現在のイスラエルの国旗にも取り入れられている六芒星のマークは「ダビデの星」とも呼ばれているが、実際には歴史上実在したダビデ王とは関係がなく、後世に考案されたものである。

脚注

  1. ^ サムエルの留守中に神から禁じられていた生贄をささげた。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』I 古代ー中世 原書房 2004年 23ページ )
  2. ^ サムエル記上(口語訳)#第15章
  3. ^ サムエル記上(口語訳)#16:13,14
  4. ^ サムエル記上16:1-23
  5. ^ サムエル記上17:1-54
  6. ^ サムエル記上24:1-23
  7. ^ サムエル記上31:1-13
  8. ^ サムエル記下(口語訳)#第1章
  9. ^ サムエル記下2:1-4
  10. ^ サムエル記下4:1-5:12
  11. ^ サムエル記下5:4-5
  12. ^ サムエル記下8:1-13
  13. ^ サムエル記下19:1
  14. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』I 古代ー中世 原書房 2004年 24-25ページ
  15. ^ 列王記上1:1-4
  16. ^ 列王記上1:5-40
  17. ^ 列王記上2:1-11

参考文献

関連項目

外部リンク

イスラエル王国

イスラエル王国

מַמְלֶכֶת יִשְׂרָאֵל

分裂前のイスラエル王国

イスラエル王国(イスラエルおうこく、ヘブライ語: מַמְלֶכֶת יִשְׂרָאֵל‎)は、紀元前11世紀から紀元前8世紀まで古代イスラエルに存在したユダヤ人の国家。「イスラエル」という国名は、ユダヤ民族の伝説的な始祖ヤコブが神に与えられた名前にちなんでいる。

キリストの降誕

キリストの降誕(キリストのこうたん、英: The Nativity)とは、イエス・キリストの誕生のこと。

サウル

サウル(Saul、ヘブライ語:שָׁאוּל)は、旧約聖書『サムエル記』に登場する、紀元前10世紀頃のイスラエル王国の最初の王。

サムエル記

『サムエル記』(サムエルき)は旧約聖書におさめられた古代ユダヤの歴史書の1つ。元来、『列王記』とあわせて1つの書物だったものが分割されたようである。また『サムエル記』自体も上下にわかれているが、これはギリシャ語聖書以来の伝統である。また、正教会においては列王記第一、列王記第二と呼称される。内容的には『士師記』のあとを受け、『列王記』へと続いていく。タイトルは最後の士師であり、祭司であったサムエルに由来。ユダヤ教の分類では『ヨシュア記』『士師記』『列王記』と共に「前の預言者」にあたる。

この書物の原作者は、サムエル、ナタン、ガドであると伝えられている(歴代誌上 29:29)。

シオン

シオン(ヘブライ語: ציון‎、ティベリア式発音:Ṣiyyôn)は、イスラエルのエルサレム地方の歴史的地名。ラテン文字ではSion(フランス語発音: [sjɔ̃] スィヨン)、Zion(英語発音: [ˈzaiən] ザイアン、ドイツ語発音:ツィーオン)などと書かれ、日本語では米国英語にならった「ザイオン」との表記も見られる。

もと、ダビデの支配下に入ったエブス人の町として登場する地名だが、神殿の丘の別名となり、のちにエルサレム全体、さらにイスラエルの地全体への形容詞ともなった。シオンの丘というものも存在し、シオニズムの語源となった地名である。

ソルター

ソルター(英語: Psalter)とは一般に「詩篇」と訳される内容へ挿絵や装飾をつけた書籍のことである。

ソロモン

ソロモン(ヘブライ語: שלמה、Šəlōmōh Shlomo、 ギリシア語: Σολομών、 ラテン語: Salomon、 アラビア語: سليمان、Sulaymān、 トルコ語: Süleyman、 紀元前1011年頃 - 紀元前931年頃)は、旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)の第3代の王(在位紀元前971年 - 紀元前931年頃)。父はダビデ。母はバト・シェバ。エジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘を降嫁されることで安全保障を確立し、古代イスラエルの最盛期を築いた。

ダビデの星

ダビデの星(ダビデのほし)は、ユダヤ教、あるいはユダヤ民族を象徴するしるし。二つの正三角形を逆に重ねた六芒星(ヘキサグラム)といわれる形をしておりイスラエルの国旗にも描かれている。文字コードはU+2721(Unicode、✡)。

ダビデ・レベリン

ダヴィデ・レベッリン(Davide Rebellin。1971年8月9日- )はイタリアのヴェネト州・ヴェローナ県のサン・ボニファーチョ出身の自転車プロロードレース選手。ダヴィデ・レベリン、ダビデ・レベリンという日本語表記も見受けられる。

1992年プロデビュー。30歳を超えてから実力を発揮するようになった、遅咲きのクラシックハンターであり、2004年のアルデンヌクラシック3連勝など数々のクラシックレースで好成績を収めている。

ダビデ像 (ミケランジェロ)

ダビデ像(ダビデぞう、伊: David di Michelangelo)は、ミケランジェロが1501年から制作を開始し、1504年9月8日に公開した彫刻作品である。フィレンツェのアカデミア美術館に収蔵されている。

ナオミの夢

「ナオミの夢」(ヘブライ語: אני חולם על נעמי‎‎;ラテン文字転写:ANI HOLEM AL NAOMI,英語: I Dream of Naomi)は、1970年のイスラエルの楽曲。ヘドバとダビデ(ヘドバ・アムラニ(ヘブライ語版) とダビデ・タル(ヘブライ語版))の著名な歌である。1970年開催の世界47ヶ国の代表が出場した第1回東京国際歌謡音楽祭(後の世界歌謡祭)でグランプリを受賞し、イスラエルと日本において有名になった。

ヘドバとダビデ

ヘドバとダビデ(HEDVA & DAVID/ヘブライ語: חדוה ודוד‎)は、イスラエルの歌手グループ。

二人はイスラエル軍の音楽隊で知り合い、退役後の1965年にデュオグループとしてプロデビューし、ファースト・アルバム『二人のフォーク歌手(מעלה דודי פטימר‎)』に収録されたグルジア(現・ジョージア)のフォークソング「ゴーゴリ・ゴーゴリ(גוגולי גוגולי‎)」が話題を集めた。

1970年、世界47ヶ国の代表が出場した第1回東京国際歌謡音楽祭(翌年から世界歌謡祭に改称)にイスラエル代表として出場し、ヘブライ語の楽曲「ANI HOLEM AL NAOMI(ヘブライ語: אני חולם על נעמי‎;英語:I Dream of Naomi)」を歌いグランプリを受賞。その後、二人が一週間東京に滞在している間に日本語の詞を付けレコーディングし、翌年1月25日、「ナオミの夢」のタイトルで発売、大ヒットした。1970年代後半に解散。

旧約聖書

旧約聖書(きゅうやくせいしょ)は、ユダヤ教およびキリスト教の正典である。「旧約聖書」という呼称は旧約の成就としての『新約聖書』を持つキリスト教の立場からのもので、ユダヤ教ではこれが唯一の「聖書」(タナハ)である。そのためユダヤ教では旧約聖書とは呼ばれず、単に聖書と呼ばれる。『旧約聖書』は原則としてヘブライ語で記載され、一部にアラム語で記載されている。また、イスラム教においてもその一部(モーセ五書と詩篇に相当するもので現在読まれているものとは異なる。それらはそれぞれ、アラビア語で「タウラー」「ザブール」と呼ばれる)が啓典とされている。

歴代誌

『歴代誌』(れきだいし, ヘブライ語: דברי הימים‎ Dibhrēy hayYāmīm ディブレー・ハイ=ヤーミーム、英: Books of Chronicles)は旧約聖書におさめられたユダヤの歴史書。歴代誌という書名は聖書の日本語訳者によって様々に表記され、歴代志、歴代史、歴代の書、歴代誌略などとも表記される。2巻に分かれており、ダビデの死までが書かれた巻は上や第一、第一巻などと呼ばれ、バビロン捕囚までが書かれた巻は下や第二、第二巻などと呼ばれる。『サムエル記』『列王記』と内容が重複している。ユダヤ教では「預言書」でなく「諸書」の1つになっている。

キリスト教では歴史書として『列王記』と同列に扱われ、その後におさめられている。『歴代誌』(ラテン語:Chronica)という題名はヒエロニムスが初めて使用したものである。ギリシア語聖書では『パレレイポメナ』(省略されたもの)というタイトルがついていて、『列王記』などの歴史書の補足という意味合いをもたされている。

この書物の原作者は、伝統的にエズラであると伝えられている。文体や記述法が似通っているため、批評学的には『エズラ記』『ネヘミヤ記』と同じ著者グループによってかかれたものではないかと考えられている。

盛期ルネサンス

盛期ルネサンス(せいきるねさんす、英語:High Renaissance)は、美術史において、イタリアのルネサンス芸術の最盛期(1450年〜1527年)を指す言葉である。前期はメディチ家が支配するフィレンツェによるフィレンツェ派、後期はローマ教皇ユリウス2世による芸術家たちをパトロンとした時期で、活動の中心は、それまでのフィレンツェからローマに移った。このユリウス2世や、後のメディチ家出身の教皇レオ10世などはルネサンス教皇と呼ばれる。

一般に、盛期ルネサンス絵画は1490年代後半に現れたとされている。レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノで『最後の晩餐』を描いていた時期である。

その頂点は、絵画においては、ミケランジェロやラファエロがバチカンに描いた絵画とされる。建築では、1502年に古代ローマ建築の本格的復古を告げるテンピエットをドナト・ブラマンテが建てたこと。彫刻では、静力学と運動の理想のバランスを特徴とする、ミケランジェロの『ピエタ』、『ダビデ像』が挙げられる。またヴェネツィアでは、ジョルジョーネや若きティツィアーノの、落ち着いた雰囲気・鮮やかな色彩が盛期ルネサンスの好例とされる。

広義にとらえるなら、盛期ルネサンスは創造性豊かな天才の大爆発と言えるだろう。超一流とは言えないかも知れないが、多くの画家たちがこの時期に活動した。たとえば、フラ・バルトロメオやマリオット・アルベルティネッリは、彼らの絵画技法の完全な調和と全体の抑制が注目に値する作品群を制作した。また、後期のミケランジェロやアンドレア・デル・サルト、コレッジョの作品に見られる、長く伸びたプロポーションと誇張されたポーズは、美術史において後期ルネサンスと見なされるマニエリスムの到来を予感させるものである。

その盛期ルネサンスも、1520年のラファエロの死と1527年のローマ略奪によって終焉をもたらされた。16世紀イタリアでは、イタリア戦争がこの時代に頂点に達し、盛期ルネサンスはイタリアでの活力が失われ、同時にヨーロッパ諸国へと拡散していったのである。

石(いし)は、岩(いわ)より小さく、砂(すな)よりも大きい、鉱物質のかたまり。

詩篇

『詩篇』または『詩編』(しへん、ヘブライ語: תהלים‎ Təhillīm, 英語: Psalm)は、旧約聖書に収められた150篇の神(ヤハウェ)への賛美の詩。

文語訳聖書では「詩篇」と表記し、口語訳聖書、新改訳聖書もそれを引き継いでいるが、新共同訳聖書では「詩編」と表記している。正教会では聖詠と呼ばれている。

赤十字社

赤十字社(せきじゅうじしゃ)とは、国際赤十字・赤新月運動(「赤十字運動」)によって運営される戦争や天災(自然災害)時における傷病者救護活動を中心とした人道支援団体の総称である。スイス人実業家アンリ・デュナンの提唱により創立された。

世界各国に存在し、それらは国際的な協力関係を持っている。国によっては赤新月社(せきしんげつしゃ)、赤十字会(せきじゅうじかい)を名乗る。

音楽療法

音楽療法(おんがくりょうほう、英語: Music therapy)は、音楽を聞いたり演奏したりする際の生理的・心理的・社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上をはかる事を目的とする、健康法ないし代替医療 Alternative Medicine あるいは補完医療 Complementary Medicine(いずれも「現代西洋医学領域において、科学的未検証および臨床未応用の医学・医療体系の総称」と定義され、現代的な意味での医療とは区別される)。歌唱や演奏を行う能動的音楽療法と音楽を聴くなどの受動的音楽療法の2つに分かれる。

バリー・キャシレスは、『代替医療ガイドブック』において「音楽療法は立証済みの補完療法であり、多くの病状や問題に効果を上げている。治癒力はなく、いくつかの補完療法のように、重大疾患の治療法として勧められることもない。しかし、優れた補完医療法の例にもれず、幸福感や生活の質を高め、症状を軽減し、初期治療やリハビリテーションの効果を高めてくれる」と述べている。

古代イスラエルの王
旧約聖書の系図(アダムからダビデまで)

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