サマリア

サマリアSamaria)は、パレスチナ中央部の地域名で、北にガリラヤ、南にユダヤが接する。おおむねイスラエル中央地区テルアビブ地区、およびヨルダン川西岸地区北部に相当する。

ヘブライ語ではショムロン(שומרון、Shomron)、アラビア語ではアッサマラーالسامرة‎、as-Sāmarah)と呼ぶが、現在のアラビア語では別名のサバスティーヤ(Sabastīya)で呼ばれることが多い。

First century Iudaea province
1世紀のパレスチナの属州
Samaria, George Adam Smith
サマリアの地図(1894年

呼称

聖書の『列王記』によると、サマリアという名前は昔この辺の土地を持っていた地主「ショメル(Shemer セメルとも)」の名前が起源とされる(日本語読みに直すと分かりにくいが、原語では「ショメル」「ショムロン」で似た音であることが分かる)。その後、新しい都を作るためこの地にあった丘を購入した北イスラエル王[1]オムリが前の持ち主であったショメルの名前を都市名に使うようになり[2]、その後この辺り周辺が北イスラエル王国の中心地となったため、都市に限らずにこのあたりの地域やもっと広く北イスラエル王国そのものを指すようになった[3]

その後、紀元前1世紀に親ローマ的だったヘロデ王により都市が整備された際に、アウグストゥスギリシャ語訳セバストスに因み「セバステ (Σεβαστη 尊敬すべし) 」と改名され、現在は都市が「サバスティーヤ」と呼ばれるのはこちらが語源である。

現在、西岸地区北部をサマリアと呼ぶことはシオニストに好まれ、彼らはヨルダン川西岸地区ユダヤ・サマリアと呼ぶ。

歴史

上述のように当初この地方は北イスラエル王国の中心部であったが、紀元前722年北イスラエル王国がアッシリアにより滅ぼされると指導者たちはアッシリアに連れていかれ(アッシリア捕囚)、代わりにバビロン、クテ、アワハマテセファルワイムから[4]アッシリア帝国からの移住者が入植してきて、アッシリアによりサマリア県が置かれた。

(サマリア県はアッシリアに続くバビロニア時代にも存続し、紀元前586年南ユダ王国滅亡(バビロン捕囚)後は、その旧領土、すなわちエルサレム周辺も、一時的にサマリア県に併合された)

残された住民とアッシリアからの移住者でサマリア県(狭義)に住む人々は、後に「サマリア人」と呼ばれるようになる。

その後、この地の支配者はアッシリアからバビロニア、そして第3の支配者であるペルシャ帝国によって紀元前537年捕囚者の帰還許可が出始め、その後しばらくしてペルシャ王の給仕長だったネヘミヤが戻ってきた頃、サマリアの総督に「ホロン人[5]のサンバラテ(サンバラト)」なる人物がついており[6]、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第XI巻8章2節[7]や後にエルサレム近郊で見つかったパピルスで紀元前4世紀頃にも同名の人物がサマリアの有力者として出てくる[8]ことから、彼の一族が代々サマリア総督を務めていた可能性が高いとされる[9]

紀元前4世紀後半のアレクサンドロス大王の時代にサマリアの住人がアレクサンドロス軍の指揮官の一人アンドロマコスを暗殺する事件が起こり、これを知ったアレクサンドロスは紀元前331年犯人らを処罰してマケドニア人をサマリアの街に入植させ、これによりサマリアは内陸部でのヘレニズム文化中心地のひとつとなっており、先住民のサマリア人は近隣の都市シケムを拠点とするようになっていた。

しかし、サマリアの街は戦略上重要な拠点であったためディアドコイ戦争中の紀元前312年、プトレマイオス1世がサマリアを含むコイレ・シリア地方から撤退した際に破壊され、その15年ほど後にもデメトリオス1世に攻め込まれた際に破壊されるなど、幾度も戦火の被害に遭っている(破壊されたのかは不明だが、第4次・第5次シリア戦争の両方でもアンティオコス3世にサマリアが占領されたことがある)。

その後サマリアの名前が一時的に記録から出てこなくなるが、紀元前2世紀終わりに支配者であったセレウコス朝の弱体化で独立したユダヤ(ハスモン朝)がサマリアの街やシケムといったサマリア地方を制圧し、紀元前128年と紀元前107年にヨハネ・ヒルカノス1世の侵攻を受け、特に二度目の時は1年近く包囲されて破壊され放置された。

それから40年以上たった紀元前63年にグナエウス・ポンペイウスがハスモン朝の内戦に介入して攻め込み、結果的にサマリア地方がハスモン朝ユダヤ王国から外されてローマのシリア属州に組み込まれ、シリア総督のアウルス・ガビニウスの復興事業でサマリアの街は再建されたが、帝政時代になるとアウグストゥスはユダヤの王ヘロデにサマリア地方を与えた。ヘロデはこの時まで往時の繁栄を取り戻すことができなかったサマリアの街に除隊兵と周辺の住民からなる6000人を入植・定住させ、防衛設備などを整えてかなりの規模で拡大し、自分にこれを与えてくれたアウグストゥスに捧げる神殿を築くと、この再建された都市を彼をたたえて「セバステ」と改名した(紀元前25年ごろ)。

ヘロデの死後、サマリア地方は彼の息子のアルケラオスの手に渡ったが、彼が失策をしたためローマは彼を追放し、紀元6年ここを南方の狭義のユダヤ地方とイドメア地方と共にユダヤ属州にまとめられアグリッパ1世の統治下(40-44年)の一時的な期間を除き、ユダヤ総督[10]の管理下に置かれていた。

これ以後はセプティミウス・セウェルス皇帝の時代にセバステに植民地が築かれた記録が残っているが、ネアポリスが繁栄していく傍らで重要性が低下してエウセビオスから「小さな都市」と呼ばれるまでになっていた。[11]

出典

  1. ^ 以後「北イスラエル」としてある部分は原文では「イスラエル」のみ。詳しくは「イスラエル王国」のページを参照。
  2. ^ 『列王記』上16:24。
  3. ^ 例として『列王記』上18:2に「サマリアでは飢饉がひどかった」とあるが、この時特に籠城戦をしていたわけではないので「サマリアの街だけ食糧不足」の意味ではなく王国全土の意味でサマリアを使っていると分かる。
  4. ^ 列王記下 17:24
  5. ^ 「ホロン」がどこを指すのか不明、有力なのがエフライム地方「ベト・ホロン」かモアブ地方「ホロナイム」のどちらかの都市。
  6. ^ ネヘミヤ記』第3章34節、彼がサマリアの軍を率いている記述がある。
  7. ^ フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌3 旧約時代編[VIII][XI][XI][XI]』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08533-5、P391以後。
  8. ^ ヨセフスの言う「サンバラト」とエルサレムのパピルスに書かれていた「サンバラト」は別人。
    前者はアレクサンドロスがアジアに攻め込んできてペルシャ王ダリヨスが敗れた際(紀元前333年)に、ダリヨスを見限ってアレクサンドロスに降伏した最後のサマリア総督でガザ包囲戦終了の2か月後に死去。
    エルサレムのパピルス(執筆年代は紀元前4世紀中盤付近)に書かれていたのは「現サマリア総督の父」で総督本人ではない。
    ちなみに『ネヘミヤ記』は、ネヘミヤがエルサレムに向かうと決意したのが「アルタクセルクセス(1世)の治世20年目(西暦では紀元前445年ごろになる)」と第2章1節にあるのでこれらの100年以上前の話。
  9. ^ E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽 安達かおり 馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻P29
  10. ^ もしくは「ユダヤ長官」とも訳される、ユダヤ属州は規模が小さいため、シリア属州などの大規模な属州総督(「レークトル・プローウィンキアエ(Rector Provinciae)」)と違い「プラエフェクトゥス(Praefectus)」と呼ばれる役人がレークトル・プローウィンキアエの配下として活動していた。
  11. ^ E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽 安達かおり 馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻P54・170-172

外部リンク

関連項目

アリエル (イスラエル)

アリエル(ヘブライ語: אריאל‎、Ariel)は、ヨルダン川西岸(ユダヤ・サマリア地区)に位置するイスラエルの都市で、1967年の第3次中東戦争後にイスラエルが建設を始めたユダヤ人入植地である。

イスラエルの行政区画

イスラエルの行政区画(イスラエルのぎょうせいくかく、ヘブライ語: מחוזות ישראל‎)では、イスラエルの行政区画について解説する。

イスラエルの都市の一覧

イスラエルの都市人口の順位(イスラエルのとしじんこうのじゅんい、ヘブライ語: ערים בישראל‎)

イスラエル中央統計局が公表した2006年の市人口である。

イスラエル王国

イスラエル王国

מַמְלֶכֶת יִשְׂרָאֵל

分裂前のイスラエル王国

イスラエル王国(イスラエルおうこく、ヘブライ語: מַמְלֶכֶת יִשְׂרָאֵל‎)は、紀元前11世紀から紀元前8世紀まで古代イスラエルに存在したユダヤ人の国家。「イスラエル」という国名は、ユダヤ民族の伝説的な始祖ヤコブが神に与えられた名前にちなんでいる。

サマリアの女

サマリアの女(サマリアのおんな、英語: Samaritan woman at the well)は新約聖書のヨハネによる福音書(4:1-42)に登場するサマリア人の女。サマリヤの女とも表記される。彼女は、サマリアにあるヤコブの井戸のほとりでイエスと会話をし、この人が来るべきメシアかもしれないと思った。

サマリア人

サマリア人(さまりあじん、さまりあびと)とは、時代によって意味が変わるが、主にサマリア地方の住民、特にイスラエル人とアッシリアからサマリアに来た移民との間に生まれた人々やその子孫、およびサマリア教徒のことをいう。

サマリア文字

サマリア文字とは、サマリア語を表記するための文字。

ナーブルス

ナーブルス(Nāblus、Nābulus、アラビア語: نابلس‎ Nāblus [næːblʊs] ( 音声ファイル)、ヘブライ語: שכם‎ Šəḵem)は、パレスチナ自治区、ヨルダン川西岸地区(ユダヤ・サマリア地区)北部のナーブルス県の県都。

2014年の人口は14万6500人。

ゲリジム山とエバル山の間にある。

市内とゲリジム山麓の村にはサマリア人社会がある。

ユダヤ教の隠れた聖地の一つでもある。

ヘブライ語

ヘブライ語(ヘブライご、עברית, Ivrit, ラテン語: Lingua Hebraea)は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する北西セム語の一つ。ヘブル語とも呼ばれる。

ヘロデ朝

ヘロデ朝

בית הורדוס

ヘロデ大王時代のヘロデ朝の支配地

ヘロデ朝(ヘブライ語: בית הורדוס‎、英語: Herodian Dynasty、紀元前37年 - 92年頃)は、エドム人系のパレスティナ・ユダヤ地区に成立された国家である。ハスモン朝の断絶後に古代ローマ(共和政ローマおよびローマ帝国)よりユダエア属州の統治を委任された。ここでイエス・キリストが生まれた。

マアレ・アドゥンミーム

マアレ・アドゥンミーム(ヘブライ語: מעלה אדומים‎, Ma'ale Adummim)は、ヨルダン川西岸地区(ユダヤ・サマリア地区)にあるイスラエルの都市(入植地)である。

モーセ五書

モーセ五書(モーセごしょ)、時にはトーラ(ヘブライ語: תורה‎)とも呼ばれることがあるが、旧約聖書の最初の5つの書である。モーゼの五書、律法(りっぽう)、ペンタチュークとも呼ばれる。これらはモーセが書いたという伝承があったのでモーセ五書と言われるが、近代以降の文書仮説では異なる時代の合成文書であるという仮説を立て、モーセが直接書いたという説を否定する。ただし、保守的なキリスト教会と学者は今日もモーセ記者説を支持している。また正教会における註解書には、こうした学説の対立に触れず、「伝統的に」モーセが著者であるとされているという記述にとどめているものもある。

ユダヤ

ユダヤ(漢字:猶太)は、イスラエル王国部の地方。

ヤコブの子ユダにちなみ、かつてユダ王国があったことからこう呼ばれるようになった。

ヨルダン川西岸地区

ヨルダン川西岸地区(ヨルダンがわせいがんちく、アラビア語: الضفة الغربية‎ aḍ-Ḍiffah l-Ġarbiyyah、ヘブライ語: הגדה המערבית‎ HaGadah HaMa'aravit)は、ヨルダンとイスラエルの間に存在し、現在パレスチナ国(パレスチナ自治区)の一部を形成するヨルダン川より西部の地域のこと。欧米などでは単にウェストバンク(West Bank, 西岸の意)と表現される事が多い。

なお、東エルサレムは歴史的にはヨルダン川西岸地区の一部として扱われてきたが、政治的・文化的・人道的な重要性から、ヨルダン川西岸地区とは別個に取り扱われることが多い。

地区の面積は5,660km2(後述する3つの区分に分けられる)で、その中に約270万人(2016年)のパレスチナ人と約40万人のユダヤ人(2014年、東エルサレムを除いた入植地の人口)がいる。

使徒言行録

『使徒言行録』(しとげんこうろく、ギリシア語: Πράξεις τῶν Ἀποστόλων、ラテン語: Acta Apostolorum)は、新約聖書中の一書。

新約聖書の中で、伝統的に四つの福音書のあとにおかれる。『使徒言行録』は新共同訳聖書などで用いられる呼称で、他にも多くの日本語名がある。

古代イスラエル

古代イスラエル(こだいイスラエル)は伝説的な太祖アブラハムの時代からユダヤ戦争終結までのイスラエル古代史を概説する。古代イスラエル史は旧約聖書に基づく記述が多く見られるが、考古学的事実や他資料からの裏付けが取れている部分は相当に少ない。

善きサマリア人のたとえ

善きサマリア人のたとえ(よきサマリアびとのたとえ、英語: Parable of the Good Samaritan)とは、新約聖書中のルカによる福音書10章25節から37節にある、イエス・キリストが語った隣人愛と永遠の命に関するたとえ話である。このたとえ話はルカによる福音書にのみ記されており、他の福音書には記されていない。

「善いサマリア人(じん)のたとえ」、「よいサマリア人(じん)のたとえ」とも表記される。「サマリア人(びと)」は媒体によって「サマリヤ人(びと)」、「サマリヤ人(じん)」、「サマリア人(じん)」の表記がある。新共同訳新約聖書では「サマリア人(じん)」と表記されている。

善きサマリア人の法

善きサマリア人の法(よきサマリアびとのほう、英:Good Samaritan laws、良きサマリア人法、よきサマリア人法とも)は、「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法である。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(バイスタンダー)による傷病者の救護を促進しよう、との意図がある。

アメリカやカナダなどで施行されており、近年、日本でも立法化すべきか否かという議論がなされている。

東エルサレム

東エルサレム(アラビア語: القدس الشرقية‎, ヘブライ語: מזרח ירושלים‎)は、現代のエルサレム東部の地区名。1949年以前のエルサレム市域の20%を占め、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地でもある旧市街を含む。ただし、現在の「東エルサレム」は1967年に周囲の28の自治体を編入しているため、1949年以前とは範囲が異なる。

パレスチナ国(パレスチナ自治政府)は東エルサレムを首都とみなしているが、現状はイスラエルが実効支配を行っている。2014年7月1日の人口は25万5700人。

旧約聖書の町

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