エレファンティネ島

エレファンティネ島ギリシャ語: Νησί Ελεφαντίνη, ラテン文字転写: Nēsí Ēlephantínēアラビア語: جزيرة الفنتين, ラテン文字転写: Gazīrat il-Fantīn)は、ナイル川の下流域にある川中島である。東側の対岸にアスワーンの町がある。島の南端部には、主に新王国時代に建てられたクヌム神殿遺跡やナイロメーターの遺跡がある。なお、現地ではアスワーン島(Jazīrat Aswān)がフォーマルな名称である。

エレファンティネ島はナイル川の第1急流を構成する無数の島や岩礁のひとつであり、当該第1急流の北端に位置する(#地理)。古代エジプトの地理概念ではエレファンティネ島が上エジプトの南端であり、第一急流を越えてナイル川を遡るとそこは「ヌビア」と呼ばれる地域であった。また、エレファンティネ島には第1行政区(ノモス)の主都が置かれた[1]#歴史)。

Aswan, Elephantine, west bank, Egypt, Oct 2004
エレファンティネ島西岸
Nubian village Elephantine Island
ナバータート島(キッチナー島)から見たエレファンティネ島のヌビア人の村

地理

エレファンティネ島はエジプトの南部に位置する、ナイル川の中にある島である[2]。南西から北東に長い島であり、ナイル川の第1急流(カタラクト)の終端部を構成している。島の西側には、島全体が植物園になっているナバータート島(キッチナー島)がある[2]。南側には無数の小島や岩礁が浮かんでおり、東側の対岸にはアスワーン市の中心市街がある[1]。後述するようにアスワーンはもともとエレファンティネ島に従属する集落に過ぎなかったが、現在は都市化が進み、エレファンティネ島をその行政区の一つに取り込んでいる。

エレファンティネ島は観光業が盛んである。アスワーンから島に橋は架かっていないが、ファッルーカと呼ばれる三角帆の小型船に乗ってナイル川を渡河できる[2]。主要な観光資源としては、島の南端にあるクヌム神の神殿跡のほか、パームヤシの木で囲まれた2つの「ヌビア人の村」、アスワン・ダム建設以前のヌビア人の日常生活を紹介するアニマリア博物館などがある[2]。島の北端部には大きなホテルがある[2]

地名

エレファンティネ島
ヒエログリフで表示
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エレファンティネ島の歴史はきわめて古く、古代エジプト古王国の時代から島には町が存在していた。島の名前はヒエログリフで右掲表のように表される[3]ヒエログリフの転写方式には種々のものがあるが、Unicode version 1.1 (1992) に基づいて転写すると、ȝbw になる[3]。より簡易な方式では、Abw 或いは 3bw とされることもある[3]。島の名前 ȝbw古代エジプト語で「」或いは「象牙」を意味する[3]。読み方は中エジプト語では /ɫibu:/ と発音し、後期エジプト語では /ʔibu:/ と変化した[1]。「象牙の島」という名称から推測するに、エレファンティネ島は遥か南のサヘル地方で産出される象牙の取引所として重要な場所であったようである。別の説では、島は象から身を守る場所であって、その意味のギリシア語の単語エレファス(ελέφας) が古代における島の名前であったとする。

学術的でない一般人向けの観光情報サイトなどでは、ファラオの時代の島の呼び名は、Abou, Yeb (アブー、イェブ)などと記載されている[1]。英語圏やフランス語圏などで広く通用している、"Elephantine" の名称は、上述のように古代エジプト語で象、象牙を意味する「アブー」を、古代ギリシア語に意訳した "Ελεφαντίνη" に由来する[1]

歴史

古王国時代エジプトにおいてエレファンティネ島は「南への扉」という別名で知られており[4]、「エジプト」という国ないし地域の南限であると考えられていた(この島より南は「ヌビア」という別の国ないし地域)[4]。島の南部には、紀元前4000年前からスント(Sount)という城が築かれていた。スントには「浮く町」という意味がある。古代王国は、この街を税関として、また南の国との交易の場所として利用していた。長年続けてられている発掘によると、古王朝時代のエレファンティネ島は、日干し煉瓦の壁で囲われていたことがわかった。また、島には居住区の他に、当該地域の地方長官の住むところや、倉庫区、サテト神を祀った聖所があった。当該聖所は、最も古いところで第6王朝まで遡ることができた。島ではまた、小規模な階段ピラミッドであった可能性もある石切場の遺構も見つかった。この遺構が階段ピラミッドであった場合、それはスネフェルにより興された第4王朝により建造された一連の記念碑の一つと考えられる。なお、当該一連の記念碑は第3王朝フニの頃から建造されている。これらエレファンティネ島の建築物は、エジプト古王国に多くの巨大ピラミッドが建造された時代よりもずっと前から、絶え間無く建造されており、また、修理し続けられていた。すべて段数は3段以下ではあるが、辺境において王権を確かに示す機能があったと見られる。

Temple à Elephantine
エレファンティネ島のサテト女神の神殿にあったファラオのレリーフ。ルーヴル美術館蔵。

エレファンティネ島には第11王朝第12王朝のレリーフがあるため、エジプト中王国時代にも記念碑が建てられたことが判明している。エジプトがヌビアを属領とした中王国時代には、ヌビアを支配するための行政庁がエレファンティネ島に置かれた[4]

エジプト新王国時代にもエレファンティネ島には数多くの神殿が建てられることになる。新王国時代の神殿がクヌムに捧げられた神殿である。その周りには、ハトシェプストトトメス3世の時代に建てられたアヌケト神に捧げられた神殿と、神殿と同じ様式でアメンホテプ3世の頃に建てられた商業施設が配置された[4]。時と共に街は大きくなり、ナイル川を越えて東側に拡がった。このナイル東岸の街は、のちにシュエネ(アスワンの古称)になった。

ネクタネボはクヌム神殿の修復をした。クヌムはナイル川の源流を守る神であり、急流の主である。クヌムの従神、アヌケトとサテトの神殿もまた、ネクタネボにより修復された。

プトレマイオス朝エジプトの時代には、エレファンティネ島と東岸シュエネを合わせた町はますます発展した。この頃、島の南岸にイシスを祀る神殿が建てられた。有名なエレファンティネ島のナイロメーターはこのイシス神殿のものである。なお、エレファンティネ島のナイロメーターの存在はよく知られているが、当時ナイル川に面したエジプトの神殿はどこも一つはナイロメーターを備えているものだった[5]

トトメス3世アメンホテプ3世の神殿は、19世紀まで見ることができたが、近代エジプトにおける工業化の必要性から、完全に取り壊されることになった。20世紀初頭にエレファンティネ島で発掘調査が行われ、古代ペルシアの統治下にあった時代(第31王朝)のアラム語パピルスが大量に見つかった(エレファンティネ文書)。これによると、紀元前6世紀までエレファンティネ島にはユダヤ人のコロニーがあり、クヌム神殿のそばに YHWH を祀る大きな神殿があったことがわかった[6]

島の周辺の遺跡

Elephantine 05
エレファンティネ島にある遺跡

初期の王朝の頃から、エレファンティネ島は「ノマルケス」(νομάρχης、あるいは、ヘリー・テプ・アー)という地方長官が支配することになっており、古王国(第6王朝)から中王国第12王朝)までの時代の地方長官の墓が、島の東側の対岸に面した土手の斜面に作られている。この墓所は「クッベテル・ハワー」(Qubbet el-Hawa)と呼ばれ、発掘調査がされている。

ノマルケスの墓所は、洞窟内にある地下墳墓である。第6王朝のサブニとメクの二重墓のように、柱や支柱で支えられた非常に広い部屋もある。第12王朝のサレンプト1世の墓も広く、ベニー・ハサン村にある、彼が代理人を務めた王たちの墓に劣らないくらいである。

なお、墓には番号が付されており、Sarenpout Ierno 36、Pepynakht (Hekayib) は no 35、Herkhouf, Khunes, Sarenpout IIno 31、Sabni は no 25、 Mekhou は no 26 である。ナイル川の土手からクッベテル・ハワーに向かって、浮かし彫で飾られた参道が作られている。夜間はアスワンの町から見えるように参道が照明で照らされる。

クッベテル・ハワーの西、ナイル川から2キロメートル行った小高くなった場所に、聖シメオン修道院 (Deir Amba Samaan) がある。この修道院はエジプトがキリスト教化された時代の重要な遺跡の一つである。修道院は、高さ6、7メートルの壁で囲まれており、要塞化されている。壁は下の方が石でできていて上にレンガが積まれている。この修道院は紀元8世紀にに建てられたエジプトで最も大きい修道院の一つである。壁の内側に入ると、高さの異なる3段のテラス状の敷地がある。最下段のテラスには3つのネフを有する教会が建っている。教会の建物は堂宇の他は修道士が寝泊まりする部屋になっている。他のテラスには、料理をしたり買い物をしたりするための施設があり、屋台やオリーブを絞る施設もある。修道院は紀元12世紀には遺棄されたものとみられる。

参考文献

  • Jean-Marie Brunier, La Stèle. Histoire de la colonie juive d'Égypte, Toulouse, Athor Éditions, 2011 ISBN 978-2-9538171-0-2

出典

  1. ^ a b c d e Les grandes cités d'Égypte : Éléphantine”. 2018年2月27日閲覧。
  2. ^ a b c d e Haag, Michael (2004). Egypt. New Holland Publishers. p. 332. ISBN 9781860111631 2018年2月27日閲覧。.
  3. ^ a b c d "3bw" in Faulkner, Concise Dictionary of Middle Egyptian”. Project Rossette. 2018年2月26日閲覧。
  4. ^ a b c d “Elephantine, island, Egypt”. Encyclopaedia Britannica 2018年2月26日閲覧。.
  5. ^ Meyboom, P. G. P. (1995). The Nile Mosaic of Palestrina: Early Evidence of Egyptian Religion in Italy. Brill. ISBN 90-04-10137-3.
  6. ^ van Hoonacker, A. (1915). Une Communité Judéo-Araméenne à Éléphantine, en Egypte, aux vi et v siècles avant J.-C,.

座標: 北緯24度5分20秒 東経32度53分20秒 / 北緯24.08889度 東経32.88889度

アスワン

アスワン(Aswan)、もしくはシエネ(Syene)は、エジプト南部、ヌビア地方の都市で、アスワン県の県都。エジプトの国家の一大事業であったアスワン・ハイ・ダムの近く。

市内には、アガサ・クリスティが『ナイルに死す』を執筆し、その作品の舞台となったことで知られる名門ホテル「オールド・カタラクト」がある。フィラエ神殿は、世界遺産に登録されている。アブ・シンベルへの観光拠点でもある。1951年~1978年にかけて、世界最少の平均降水量(0.5mm)を記録した。エラトステネスは、この都市とアレクサンドリアとの太陽の南中高度の違いから地球の全周長を求めた。

アメンエムハト5世

アメンエムハト5世(Amenemhat V, 在位:紀元前1796年頃 - 紀元前1793年頃)は、古代エジプト第13王朝の第3代または第4代ファラオ(王)。資料によっては2代目の王セネブエフと同一人物として扱われる。

エジプトの歴史

本項では、エジプトの歴史(エジプトのれきし、History of Egypt、تاريخ مصر)を解説する。エジプトという歴史地理的空間を定義するのはほとんど降水がない砂漠地帯を貫流するナイル川である。元々は草原が広がっていたナイル川周辺の地域が気候変動によって乾燥するに従い、人々はナイル川流域に集まっていった。歴史時代のエジプトの人口はその大半がナイル川両岸の極狭い範囲に集中しており、周囲のオアシスに僅かな人口があった。ナイル川流域は川が分岐して扇状に広がるナイルデルタ地帯である北部の下エジプトと、川の両岸数キロ程度の範囲の可住地が線状に続く上エジプトに分けられる。上エジプト南端部のエレファンティネ島(アスワーン)南にあるナイル川の第1急湍より上流ではナイル川流域の地質が急激に変わり、エジプトとは異なるヌビアと呼ばれる地方を形成していた。しかしヌビアもまたエジプトの住民の歴史的な活動の舞台でもある。

エジプト中王国

エジプト中王国(エジプトちゅうおうこく 紀元前2040年頃-紀元前18世紀頃)は、古代エジプト史の時代区分。第11王朝の王メンチュヘテプ2世(前2060年 - 前2010年)によるエジプト統一から、第12王朝の終了、または第13王朝終了(またはその治世の途中)までとする説がある。しかし、第13王朝についての情報が不完全であるため、明確な時代境界線を引くことは難しい。本記事では第11王朝によるエジプト統一から第13王朝の終了までを取り扱うが、この範囲について統一された見解が無い事に注意して頂きたい。

エレファンティネ・パピルス

エレファンティネ・パピルス(Elephantine papyri)は、エジプトのエレファンティネ島およびアスワンの国境地帯の要塞から発見された175種の文書であり、ヒエラティックやデモティックで書かれたエジプト語、アラム語、ギリシア語コイネー、ラテン語、コプト語による1000年にわたる数百枚のパピルスからなる。文書の内容は手紙、家庭の法律的契約、その他の古記録であり、学者にとって書簡、法律、社会、宗教、言語、固有名詞などのさまざまな分野の知識の貴重な源泉になっている。

パピルスの最大の部分はアケメネス朝時代の「リングワ・フランカ」であったアラム語で書かれており、アケメネス朝によって支配された紀元前495-399年においてエレファンティネに駐屯したユダヤ人兵士のコミュニティーの文書である。

19世紀後半以降、現地の古物のグレーマーケットに流出し、いくつかの西洋のコレクションに分散した。

紀元前419年の「過ぎ越しの手紙」(1907年発見)は過ぎ越しの祭を適切に過ごすための詳細な指示を含み、現在はベルリンのエジプト博物館が所蔵している。

ブルックリン美術館もエレファンティネ・パピルスを所蔵する。このブルックリン・パピルスの発見はそれ自身が注目に値する物語である。最初ニューヨークのジャーナリストだったチャールズ・エドウィン・ウィルバーが1893年に取得し、50年以上倉庫に眠っていた後、ブルックリン美術館のエジプト部門に届けられた。このとき学者ははじめて「ウィルバーが最初のエレファンティネ・パピルスを取得した」ことに気づいたのだった。

セトナクト

セトナクト (英語: Setnakhte、、在位:紀元前1185年 - 紀元前1182年) は、エジプト新王国・第20王朝の初代ファラオ。

ナイル川

ナイル川(ナイルがわ、アラビア語: النيل‎ (an-nīl)、英語: the Nile、フランス語: le Nil)は、アフリカ大陸東北部を流れ地中海に注ぐアフリカ最長級の河川である。長さは6,650km、流域面積は2,870,000km2にのぼる。

ナイロメーター

ナイロメーター(Nilometer)は、ナイル川の透明さや、毎年の洪水が起こる季節にナイル川の水位を測定する手段(建築物)だった。

6月から9月の間、エジプトを流れるナイル川は、堤防からあふれ出て、隣接する氾濫原を浸水させていた。9月から10月にかけて、水量が減少するとき、川は耕地に肥沃な黒い沈泥である沖積層を残していった。氾濫期 – エジプト語ではakhet – は、古代エジプト人が一年を3つに分けた季節の1つだった。(氾濫期を参照)

エジプト文明への毎年の洪水の重要性について説明するのは難しい。適度な洪水は、農業をするのに適していたが、正常ではなく、洪水があまり起こらない年には、飢饉を引き起こした。また、規模が大きい場合には川から離れた氾濫原に建てられた建築物の多くを流失させ、被害は甚大だった。ファラオの時代からの記録の平均では、5年に1年は、規模が例年よりも大きい洪水や、規模の小さい洪水が発生した。

次の洪水の規模を予測する能力は、古代エジプトの聖職者の神秘性の1つだった。その年の洪水の規模は、税の重さを決定する際に知る必要があったため、同じ技術はさらに、政治上・管理上の役割を果たした。これは、聖職者が川の日々の水位を測定し、夏の洪水の発生を発表し、ナイロメーターを使用し始めた場所である。

最もシンプルなナイロメーターのデザインは、水の深さを示す印の付いた間隔と共に、川の水域に沈められた垂直な棒である。精巧で華麗な石造建築に収容されていたとはいえ、この単純な設計は、今でもカイロのローダ島で見ることができる。アッバース朝カリフのムタワッキルがナイロメーターの建築を命じたのは、紀元861年でかなり後のことであり、シリアの正教徒の総主教、830年のテル・メーアのディオニュシオスによる初期の見本の跡地に建てられた。

2番目のナイロメーターのデザインには、壁に沿った深さの印と共に、水面下まで続く階段がある。

この種で最もよく知られている例は、アスワンのエレファンティネ島で見ることができる。さらに、エジプトの歴史上では、エレファンティネ島がエジプトの南側の国境に面しており、毎年洪水が襲った最初の場所であったので、この位置は特に重要であった。

最も精巧なデザインには、河岸から出発し、井戸、タンク、貯水池まで水を供給した水路 – しばしば相当な距離を流れた – が含まれていた。これらのナイロメーターの井戸は、聖職者や支配者のみが入ることができた寺院の領域内に最も多くある。深く、円筒形で、水路の穴が取り囲んでいる壁にある、特に素晴らしい例は、アスワンの北のコム・オンボ神殿で見ることができる。

ナイロメーターは、ファラオの時代から使用されていたが、その後もエジプトで支配力を持った文明で使用され続けた。20世紀になると、ナイル川の毎年の洪水は、細かく調査され、アスワン・ダムの建造と共に、完全に姿を消した。

アスワン・ハイ・ダムのエジプトとその農業への影響は、複雑な理由で論争の的となっているが、これには、ナイロメーターを旧式とした補足的な理由もあった。

ナバータート島

ナバータート島、或いは、キッチナー島(El Nabatat Island, Kitchener's Island, Geziret En Nabatat جزيرة النباتات)は、ナイル川下流域にある川中島。エジプトのアスワン地方に位置する。島の名前は「植物の島」を意味する。楕円形の小さな島である。長径が1キロメートル弱、短径が500メートルにも満たない。アスワン植物園はこの島にある。

ベヒストゥン碑文

ベヒストゥン碑文 (英: The Behistun Inscription, ペルシア語: بیستون‎ Bīsotūn)は、アケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世)が、自らの即位の経緯とその正統性を主張する文章とレリーフを刻んだ巨大な磨崖碑。イラン西部のケルマーンシャー州にある。

ラムセス5世

ラムセス5世(Ramesses V、在位:紀元前1145年 - 紀元前1141年)は、古代エジプト第20王朝の第4代ファラオ。即位名はウセルマアトラー。

ロゼッタ・ストーン

ロゼッタ・ストーン(ロゼッタ石、仏: Pierre de Rosette, 英: Rosetta Stone)は、エジプトのロゼッタで1799年に発見された石版。

紀元前196年にプトレマイオス5世によってメンフィスで出された勅令が刻まれた石碑の一部である。縦114.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cm、重量760kg。古代エジプト期の暗色の花崗閃緑岩でできた石柱である。なお、当初は花崗岩または玄武岩と考えられていた。

碑文は古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシア文字の三種類の文字で記述されている。細かい違いはあるが、本質的には同一の文章が全部で三つの書記法で著されていると早くに推測され、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンもしくは物理学者のトマス・ヤングによって解読された。これによってロゼッタ・ストーンはエジプトのヒエログリフを理解する鍵となり、他のエジプト語の文書も続々と翻訳が可能になった。

月の山脈

月の山脈(ラテン語: Montes Lunae)は、東アフリカにあってナイル川の源流があるといわれていた伝説上の山脈または山地。現代に至るまでに、ウガンダとコンゴ民主共和国の国境付近にあるルウェンゾリ山地をはじめとするいくつかの地域に比定されている。

紀元前23年

紀元前23年。

警極魔道課チルビィ先生

『警極魔道課チルビィ先生』(けいきょくまどうか - せんせい)シリーズは横山忠・作、成瀬ちさと・画のライトノベル作品。第6回スーパーダッシュ小説新人賞佳作。

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