エレファンティネ・パピルス

エレファンティネ・パピルス(Elephantine papyri)は、エジプトエレファンティネ島およびアスワンの国境地帯の要塞から発見された175種の文書であり、ヒエラティックデモティックで書かれたエジプト語アラム語ギリシア語コイネーラテン語コプト語による1000年にわたる数百枚のパピルスからなる。文書の内容は手紙、家庭の法律的契約、その他の古記録であり、学者にとって書簡、法律、社会、宗教、言語、固有名詞などのさまざまな分野の知識の貴重な源泉になっている。

パピルスの最大の部分はアケメネス朝時代の「リングワ・フランカ」であったアラム語で書かれており、アケメネス朝によって支配された紀元前495-399年においてエレファンティネに駐屯したユダヤ人兵士のコミュニティーの文書である。

19世紀後半以降、現地の古物のグレーマーケットに流出し、いくつかの西洋のコレクションに分散した。

紀元前419年の「過ぎ越しの手紙」(1907年発見)は過ぎ越しの祭を適切に過ごすための詳細な指示を含み、現在はベルリンのエジプト博物館が所蔵している。

ブルックリン美術館もエレファンティネ・パピルスを所蔵する。このブルックリン・パピルスの発見はそれ自身が注目に値する物語である。最初ニューヨークのジャーナリストだったチャールズ・エドウィン・ウィルバーが1893年に取得し、50年以上倉庫に眠っていた後、ブルックリン美術館のエジプト部門に届けられた。このとき学者ははじめて「ウィルバーが最初のエレファンティネ・パピルスを取得した」ことに気づいたのだった。

Freedom for Tamut and Yehoishema, June 12, 427 B.C.E.,47.218.90
タムトとその娘イェホイシェマの奴隷解放証書(紀元前434年)。ブルックリン美術館

歴史的価値

エレファンティネ・パピルスは現存するいかなるヘブライ語聖書写本よりも古く、したがって紀元前5世紀にユダヤ教がどのように実践されていたかについて、非常に重要な知識の片鱗を学者に与えてくれる[1]。パピルスは、紀元前400年ごろに多神教を信仰し、書かれたトーラーの知識を持たなかったと考えられるユダヤ人の一派が存在した明らかな証拠を示す。

これらの文書から我々が学んだところでは、モーセは存在せず、エジプトでの束縛もなく、出エジプトもなく、ダビデの王国もなく、預言者もいなかったようである。ほかの部族に関する記述もなく、ユダの地の遺産に関するいかなる主張もない。植民者の数多くの名前のうち、モーセ五書や初期文献に記録されているユダヤ人の過去から受けつがれたアブラハムヤコブヨセフ、モーセ、サムエル、ダビデなどの、後の時代には非常に一般的になった名前を持つ人はいない(ネヘミヤもいない)。ほとんど信じられないことだが、事実である[2] — アーサー・カウリー『紀元前5世紀のアラム語パピルス』p.23。

パピルスが述べている同様に重要な事実は、エレファンティネにあった小さなユダヤ神殿の存在で、紀元前411年という遅い時代にあって捧げ物や動物犠牲を捧げるための祭壇を持っていた。このような神殿は「申命記」12章に定められた「神殿はエルサレムの外に建てられてはならない」という法に対する明らかな違反である[1]:31[3]。その上パピルスによればエレファンティネのユダヤ人たちはエルサレムの大祭司に手紙を送って神殿の再建を要求しており、当時のエルサレム神殿の祭司が「申命記」の法を強制されなかったことを示唆しているようである。

エレファンティネの神殿が異端と考えられていたという疑いをはさむ如何なる余地も存在しない。もし彼らがそのことに疑念を抱いていたならばエルサレムの大祭司に訴えることはなかったはずである。逆に、彼らは自身の神殿を持つことを誇りに思っていて、Ya'u(ヤハウェ、誓願の中で他の神については言及されていない)の敬虔な帰依者として神殿の破壊によってもたらされる宗教的機会の喪失を真剣に嘆いているという印象を受ける[2] — アーサー・カウリー『紀元前5世紀のアラム語パピルス』p.20。

ユダヤ教の発達とヘブライ語聖書の時代に関する一般的に受け入れられたモデルでは、これらのパピルスが書かれた時代には一神教トーラーが充分に成立していなければならず、パピルスの内容はこのモデルと矛盾するように見える。大部分の学者は、この明らかな食い違いを、エレファンティネのユダヤ人が何世紀も前のユダヤ人の宗教実践の孤立した残存者であるか[1]:32、またはトーラーは当時ようやく広まりつつあった[4]として理論的に説明している。

しかし近年、Niels Peter Lemche、Philippe Wajdenbaum、Russell Gmirkin、Thomas L. Thompsonらの学者は、紀元前400年以前のユダヤ人文化に一神教とトーラーが存在しえなかったことをエレファンティネ・パピルスは示しており、したがってトーラーはおそらく紀元前4-3世紀のヘレニズム時代に成立したと考えられると主張している[5][1]:32ff

エレファンティネのユダヤ神殿

Elephantine Temple reconstruction request
エレファンティネのユダヤ神殿の再建を要求する手紙

ユダヤ人たちはヤハウェ[6]のための自分自身の神殿を持っていたが、多神教的な信仰を証拠だてるもので、エジプトのクヌム神の神殿と並行して機能した[7]

1967年に行われた発掘では、ユダヤ人の集落が小さな神殿を中心としていることを明らかにした[8]

「バゴアスへの誓願」(セイス=カウリー・コレクション)は、紀元前407年にペルシア人のユダヤ知事バゴアスへあてて書かれた手紙で、エレファンティネのコミュニティーの一部の反ユダヤ人暴動によってエレファンティネのユダヤ神殿がひどく損壊したため、再建を支援するように訴えている[9]

訴えの中で、エレファンティネのユダヤ人住民は損壊した神殿の歴史の古さについて語っている。

かつてエジプト王国の時代に我らの祖先がエレファンティネの要塞に神殿を建設し、カンビュセスがエジプトを訪れたときに神殿が建てられているのを見ている。彼ら(ペルシア人)はエジプトの神々の神殿をすべて破壊したが、誰もこの神殿を傷つけることはなかった。

ユダヤ人たちはまたサマリア人の権力者であったサンバラト1世とその子のダライヤおよびシェレミヤ、またエルヤシブの子ヨハナンにも誓願している。サンバラトとヨハナンの名は「ネヘミヤ記」2章19と12章23に見えている[10]

バゴアスとダライヤはともに勅令によって神殿を再建の許可を与える返事を覚え書きの形式で書いている。 「1バゴヒとデライヤの言葉の覚え書き2に曰く、覚え書き:汝はエジプトにて……8当地にかつての通り(再)建することを……」[11]

紀元前4世紀中ごろまでにエレファンティネの神殿は使われなくなった。ネクタネボ2世(在位360-343BC)の時代にクヌム神殿が再建・拡大されて、もとのヤハウェ神殿に取ってかわった発掘証拠がある。

アナト・ヤフー

パピルスは、「捕囚期およびその後になっても、女神への崇敬は継続した」ことを示す[12]。この文書はヌビア国境近くのエレファンティネに住むユダヤ人集団によって書かれたもので、その宗教は「鉄器時代第II期のユダ族の宗教とほぼ同じ」と記述されてきた[13]。パピルスは、ユダヤ人がアナト・ヤフー(カウリーの番号づけでAP 44の3行目で言及)を崇拝していたことを記述する。アナト・ヤフーはヤハウェの妻[14](または聖なる配偶者であるパレドラ[15])であるか、またはヤハウェの位格的な相である[13][16]

アナニヤとタムトの家族の記録

ブルックリン美術館の所蔵する8枚のパピルスは、特定のユダヤ人家庭に関するもので、ユダヤ神殿に勤務するアナニヤとその妻でエジプト人奴隷のタムト、およびその子供たちについての47年間にわたる日常生活に関する情報を提供する。1893年、エジプト人の農民たちが古代の泥煉瓦の家の遺跡を肥料にするために掘っていたときに、アナニヤとタムトの記録をエレファンティネ島で発見した。彼らは少なくとも8枚のパピルスの巻物を見つけ、チャールズ・エドウィン・ウィルバーがそれを購入した。ウィルバーはアラム語パピルスを発見した最初の人物だった。パピルスは主題によって結婚契約書・不動産売買書・借用証などに分類された[17]

ギリシア語パピルス

1906年の発掘で、オットー・ルーベンゾーンは2箇所でギリシア語の書かれた容器と、プトレマイオス朝時代のさまざまな言語で書かれた多数のオストラコンを発見した。第1の発掘品には結婚契約書、遺言、遺産記録などの文書が含まれた。第2の発掘品はギリシア文字とデモティックで書かれ、内容はプトレマイオス3世時代に建設されたエドフ神殿に関するものだった。文書の書き手はエストフェニスという名で、おそらく神殿の祭司長であっただろう。

脚注

  1. ^ a b c d Gmirkin, Russell (2006). Berossus and Genesis, Manetho and Exodus: Hellenistic Histories and the Date of the Pentateuch. New York: T & T Clark International. pp. 29ff. ISBN 0-567-02592-6.
  2. ^ a b Cowley, Arthur (2005). Aramaic Papyri of the Fifth Century B.C.. Eugene, OR: Wipf & Stock Publishers. pp. xx–xxiii. ISBN 1-59752-3631.
  3. ^ ただし、ヨセフスユダヤ戦記』によれば、ユダヤ神殿はエジプトのレオントポリスにもあった。参照:“Leontopolis”. ジューイッシュ・エンサイクロペディア.
  4. ^ Greifenhagen, Franz V. (2003). Egypt on the Pentateuch's Ideological Map. Bloomsbury. pp. 236–245. ISBN 978-0-567-39136-0.
  5. ^ Hjelm, Ingrid; Thompson, Thomas L., eds (2016). “From Plato to Moses: Genesis-Kings as a Platonic Epic”. Biblical Interpretation Beyond Historicity. Changing Perspectives. 7. New York: Routledge. pp. 76–90. ISBN 978-1-315-69077-3.
  6. ^ エレファンティネ文書中では「YHW」
  7. ^ Paolo Sacchi, The History of the Second Temple Period. T&T Clark International, 2000, London/New York, p.151
  8. ^ Stephen Gabriel Rosenberg (2013年7月1日). “Was there a Jewish temple in ancient Egypt?”. The Jerusalem Post 2015年12月3日閲覧。
  9. ^ Jim Reilly (2008), “Comment on 'Petition to Bagoas' (Elephantine Papyri)”, Nebuchadnezzar & the Egyptian Exile, Ontario: Browns Graphics and Printing, オリジナルの2011-07-23時点によるアーカイブ。 2010年7月18日閲覧。
  10. ^ Merrill Unger, Unger's Bible Handbook, p.260
  11. ^ Bezalel Porten; Ada Yardeni, Textbook of Aramaic Documents from Ancient Egypt 1. Jerusalem 1986, Letters, 76 (=TADAE A4.9)
  12. ^ Gnuse, Robert Karl (1997). No Other Gods: Emergent Monotheism in Israel. T&T Clark. p. 185. ISBN 978-1850756576.
  13. ^ a b Noll, K.L. (January 2001). Canaan and Israel in Antiquity: An Introduction. 2001: Sheffield Academic Press. p. 248. ISBN 9781841273181.
  14. ^ Day, John (2002). Yahweh and the Gods and Goddesses of Canaan. 143: Sheffield Academic Press. ISBN 978-0826468307.
  15. ^ Edelman, Diana Vikander (1996). The triumph of Elohim: from Yahwisms to Judaisms. William B. Eerdmans. p. 58. ISBN 978-0802841612.
  16. ^ Susan Ackerman (2004). “Goddesses”. In Suzanne Richard. Near Eastern Archaeology: A Reader. Eisenbrauns. p. 394. ISBN 978-1575060835.
  17. ^ Bleiberg, Edward (2002). Jewish Life in Ancient Egypt: A Family Archive from the Nile Valley. Brooklyn, NY: Booklyn Museum of Art.

関連文献

  • Cowley, Arthur, The Aramaic Papyri of the Fifth Century, 1923, Oxford: The Clarendon Press.
  • Emil G. Kraeling, The Brooklyn Museum Aramaic Papyri, 1953, Yale University Press.
  • Bezalel Porten, with J.J. Farber, C.J. Martin, G. Vittman, editors. 1996. The Elephantine Papyri in English: Three Millennia of Cross-Cultural Continuity and Change, (Brill Academic)
  • Bezalel Porten, Archives from Elephantine: The Life of an Ancient Jewish Military Colony, 1968. (Berkeley: University of California Press)
  • Yochanan Muffs (Baruch A. Levine の序論), 2003. Studies in the Aramaic Legal Papyri from Elephantine (Brill Academic)
  • A. van Hoonacker, Une Communauté Judéo-Araméenne à Éléphantine, en Égypte aux VIe et Ve siècles av. J.-C., 1915, London, The Schweich Lectures
  • Joseph Mélèze-Modrzejewski, The Jews of Egypt, 1995, Jewish Publication Society

外部リンク

アラム語

アラム語(ܠܫܢܐ ܐܪܡܝܐ, ラテン語: Lingua Aramaica)は、かつてシリア地方、メソポタミアで遅くとも紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されており、かつ現在もレバノンなどで話されているアフロ・アジア語族セム語派の言語で、系統的にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語、モアブ語などと同じ北西セム語に属す言語である。アラマイ語とも呼ばれる。

もともとアラム語は今のシリアを中心としてその周辺(レバノン、ヨルダン、トルコ、イラク)に住むアラム人の言語だった。アラム人は主に農民だったが、アレッポやダマスカスに代表される都市の住民もあった。後に通用範囲を広げて中東全体のリンガ・フランカとして使われるようになったが、7世紀にアラビア語に押されて衰退した。現在でもアラム系諸言語の話者は存在するが、周辺のアラビア語やクルド語の強い影響を受けている。20世紀にはいるとアラム語が使われる範囲は縮小した。

アラム語は新アッシリア帝国の外交用語としても使われ、新バビロニアやアケメネス朝ペルシア帝国は行政用の公用語としてアラム語が使われた。近隣のセム語話者たちはその文章語、口語のアラム語化といった直接的な影響を受ける。

パピルス

パピルス(希: πάπυρος、羅/英: papyrus)は、カヤツリグサ科の植物の1種、またはその植物の地上茎の内部組織(髄)から作られる、古代エジプトで使用された文字の筆記媒体のこと(区別のためそれぞれ、パピルス草・パピルス紙とも呼ばれる)。「紙」を意味する英語の「paper」やフランス語の「papier」などは、パピルスに由来する。ただし、パピルスは一度分散した繊維を絡み合わせ膠着させて薄く平らに成形したものではないため、狭義の紙ではない。

ヘブライ文字

ヘブライ文字(ヘブライもじ、ヘブライ語: אלפבית עברי‎ アレフベート・イヴリー、ヘブル文字とも)とは、主にヘブライ語を表記するための文字である。ほかにイディッシュ語などの表記にも用いられる。

現代のヘブライ文字は、アラム文字より派生したアブジャドの一種で、右書き(右から左に)で書く。ヘブライ語の話者はヘブライ文字をアレフベートと呼ぶ。22文字の子音文字からなる表音文字で、うち k、m、n、p、ṣ の5つの文字に非語末形と語末形(ソフィート)の区別があるため、27文字になっている。

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