エドム

エドムパレスチナの南南東、死海の南からアカバ湾に至る地域で、一般に「エドムの地」と言われる。エドムの範囲は、北は死海、南は葦の海(紅海)に至る山地で、北はセレデ川の境界にモアブと接していた。エドム人は後にヘレニズム文化でギリシア語化し、イドマヤ人と呼ばれるようになった。

「エドムの地」とは、イサクの子エサウが住んだ地を意味する。「セイルの地」「セイル山」とも呼ばれているが、「セイル」は「毛皮のよう」つまりエサウの身体の状態を表す言葉から来ているという説がある。

出エジプトの後に、エドムの西の境界の町としてカデシュ (en) をあげている。ホル山もエドムにある。

ヨシュアの領土分割相続の時にユダ族の南の境界は、ツィンの荒野で、エドムとの国境であった。

エドムの地には、アカバ湾からシリヤメソポタミヤに通じる王の道があり、エジプトとアラビアを結び交通の要路があったので、農耕、通商、貿易による巨額の収益があった。

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参考文献

関連項目

  • エドム語
1620年

1620年(1620 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。

1684年

1684年(1684 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。

アモン人

アモン人は古代パレスチナのセム系民族の一つである。アンモン人と訳される事もある。

エサウ

エサウは旧約聖書、ヘブライ語聖書『創世記』25章~36章に登場する伝説上の人物。父はイサク、母はリベカ。双子の弟ヤコブが自分に与えられるはずだった長子の祝福を授かることに関してこれを争ったが、やがて和解した。エサウの子孫は増えエドム人と呼ばれるようになる。

『創世記』によれば、イサクが60歳のときに生まれた双子がエサウとヤコブであった。先に出てきた子は色が赤くて全身が毛皮(セアル)の衣のようであったため、エサウと名づけられた。

エサウは狩人となり父イサクに愛された。しかし、空腹のあまり弟ヤコブの作っていたレンズマメの煮物を望み、軽い気持ちで自分の長子の権利を譲るという口約束をしてしまった。年をとり目が見えなくなっていたイサクは、長子エサウに祝福を与えようとした。それを知ったリベカは自分の愛したヤコブに知恵をつけ、エサウのふりをさせてイサクの祝福をヤコブに与えることに成功する。祝福を受けられなかったエサウは激怒し、ヤコブを殺そうと考える。リベカは危険を察知してリベカの兄ラバンの元へヤコブを逃亡させる。

エドムの野で暮らしていたエサウのもとに、財産を築いた弟のヤコブから再会を求める使者が訪れる。エサウは四百人の供をつれてこれを迎えたためヤコブは恐れ、ひたすら低姿勢でエサウの元に向かう。ヤコブの恐れは杞憂におわる。エサウはヤコブとの再会を喜び、二人は共に泣いた。やがて父イサクが180歳でなくなるとエサウとヤコブの二人で葬った。

エドム人

エドム人は古代パレスチナに居住したセム系民族。現在はエジプト人。エドムはアカバ湾から死海にかけての地名であった。ヘロデ大王の父アンティパトロスという人物はイドマヤの有力者だった(『ユダヤ古代誌』第XV巻9章)ため、通常ヘロデもエドム系とされる。

オバデヤ

オバデヤはユダヤ人の男性の名前。「ヤハウェの僕」を意味する。オバドヤとも転写される。旧約聖書の一書『オバデヤ書』の筆者とされる者がもっとも著名である。

オバデヤ書

『オバデヤ書』(オバデヤしょ)は旧約聖書文書のひとつ。『オバデア書』とも。旧約聖書のなかでもっとも短く、1章21節のみからなる予言の書。筆者は伝統的にオバデヤ(オバデア)という名の人物とされる(オバデヤ1、以下「オバ」と略す)。この名は字義通りには「主(ヤハ)の僕(または崇拝者)」を意味する。キリスト教では十二小預言書のひとつと分類され、ユダヤ教では後の預言者に分類される。

セム

セムは、旧約聖書創世記の第6章から11章にかけての「ノアの方舟」のエピソードに出てくる人物で、ノアの3人の息子のうちの一人。他の2人はハム、ヤペテ。

(この兄弟の年齢順は諸説あり、一般的にヘブライ語の聖書では「ハムが末子」「セムがヤペテの兄」という記述から「セム>ヤペテ>ハム」の年齢順としているが、七十人訳聖書では本文の「セム、ハム、ヤペテ」は下から数えていると判断されているらしく「末子→より若い」「ヤペテの兄→ヤペテの弟」という記述にされている。)

大洪水後、ノアが酔いつぶれて全裸で寝てしまった時にヤペテとともに気遣って上着をかけて隠してやり、これによってノアにヤペテとともに感謝されて祝福を受けたとされる。

また、大洪水の後他の兄弟とともに子孫を各地に広げた人物とされており、『創世記』第10章の系譜によると大洪水後にセムにはエラム、アシュル、アルパクシャド、ルド、アラム​という息子が生まれ、それぞれが以下の民族の始祖とされた。

(後の地名との対応は『ユダヤ古代誌』第I巻vi章の解説より)

エラム→エラム

アシュル→アシュル(アッシリア)

アルパクシャド→カルデア他

ルド→リュディア

アラム​→アラムこれらのうちアラムとアルパクシャドの息子はさらに植民を広げたとされ、アラムの息子たちはさらに以下の様に分かれた。

ウツ→トラコニティス(ガリラヤ湖東方)とダマスカス

フル→アルメニア

ゲテル→バクトリア

マシュ→スパシヌー・カラックス(メソポタミアの河口付近の地名)」次にアルパクシャドの息子たちの系譜は長くなるので一部中略(詳しくは「アルパクシャド」を参照)、アルパクシャドから8代目の子孫がアブラハムで、彼や甥のロトはカルデアで生まれたが、中東に移住してイスラエル・エドムとナバテア・ミデヤンなどのアラビア半島の民族(以上アブラハム系)・モアブ・アンモン(以上ロト系)といった民族の祖先となったとされ、その後『創世記』によればセムは600歳で死んだことになっている。

後の研究でヘブライ語、アラム語、アラビア語やエチオピアの諸言語は比較言語学的に親縁関係にあることが明らかになり、アウグスト・シュレーツァーによってこのセムの子孫たちの神話にちなみセム語と名づけられた。

イエメンの首都サナアを建設したと伝えられる。

セム語派

セム語派(セムごは)ないしセム語族(セムごぞく)は、言語学においてアフロ・アジア語族に属する言語グループである。

テラ (聖書)

テラ(ヘブライ語 תרח)は、『旧約聖書』においてアブラハムの父とされ、また、中東地域の多くの国民の祖先であるとされる人物である。

「創世記」によれば、カルデアのウルに居住していた時に、神がアブラハムにカナンの地へと移動するように命令し、テラとその家族たちもアブラハムに従って旅をした。しかし、アブラハムたちとは途中のハランの地で別れ、205歳のときハランで死亡したと伝えられる。

ナバテア王国

ナバテア王国は、紀元前2世紀前半頃にペトラ(現在のヨルダン西部)を中心に栄えたナバテア人の王国。元来ペトラ周辺を拠点に活動していた遊牧民であったナバテア人はキャラバン貿易によって莫大な富を形成し、ペトラに先住していたエドム人を排除して定住生活を営むようになった。紀元前168年に建国され、キャラバン貿易の商隊路に沿う形で領土を広げていった。紀元前63年にハスモン朝イスラエルの内戦に介入するが、共和政ローマ介入によって最終的にローマ軍にペトラ目前まで攻め込まれ、ローマの属国となった。その後、アラビア半島西を通る交易ルートは紅海を通る海上ルートが主流になっていったためペトラの商業都市としての重要性が低下し、その衰退の勢いを止めることができないまま、106年にローマのアラビア・ペトラエア属州に組み込まれて消滅した。

交易の要衝に位置していたこともあり、ナバテア王国は周辺国家との交流が盛んであったと考えられており、当時のペトラは多数の外国人が居住する国際都市であったと考えられている。王国の収入は交易による関税収入が主であり、国民の多くは隊商活動に従事していたと考えられており、そのため王政ではあったものの商業貴族の権力が強かったとされる。国境を接するハスモン朝やローマ帝国、アッシリア、古代エジプトなどの周辺諸国からの文化的、宗教的影響を受けた。権力の誇示のために作られた岩窟墓であるエル・カズネを含むナバテア王国の遺跡群は世界遺産に指定されている。

パトリス・ド・マクマオン

マクマオン伯爵およびマジェンタ公爵マリー・エドム・パトリス・モーリス・ド・マクマオン(フランス語: Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon, comte de Mac-Mahon, duc de Magenta, 1808年7月13日 - 1893年10月16日)は、19世紀フランスの軍人、政治家。第3代大統領(フランス第三共和政)。大陸ヨーロッパにおいて国家元首に就任した、唯一のアイルランド系の人物である。

ヘロデ朝

ヘロデ朝

בית הורדוס

ヘロデ大王時代のヘロデ朝の支配地

ヘロデ朝(ヘブライ語: בית הורדוס‎、英語: Herodian Dynasty、紀元前37年 - 92年頃)は、エドム人系のパレスティナ・ユダヤ地区に成立された国家である。ハスモン朝の断絶後に古代ローマ(共和政ローマおよびローマ帝国)よりユダエア属州の統治を委任された。ここでイエス・キリストが生まれた。

ペトラ

ペトラ(アラビア語: البتراء‎)は、ヨルダンにある遺跡。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またペトラとは、ギリシャ語で崖を意味する。1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録。2007年7月、新・世界七不思議に選出。

モアブ

モアブ(モアブ語:𐤌𐤀𐤁)は、古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名であり、死海の東岸、アルノン川(現ヨルダン・ハシミテ王国のワディ・アル・ムジブ)以南からゼレド川以北(現ヨルダンのワディ・アル・ハサ)の高原地帯に広がる地域を指す。この地域は、現在のヨルダン・ハシミテ王国のカラク高原地域(カラク県)にほぼ等しい。

なおモアブと呼ばれた地域は、中世イスラム期にはマアブ(Maāb)と呼ばれていたことが、9世紀のアラブ人地理学者ヤアクービーの記述から分かる。

旧約聖書によれば、ロトとロトの長女との間に生まれた息子モアブ(מואב ヘブライ語で「父によって」の意)に由来し、その子孫がモアブ人となってエミム人を打ち払ってその地域に定住したとされている。

ヤグル

ヤグルは旧約聖書に登場する町の名前である。「住居」を意味するヘブル語で、ユダ族の相続地の一つで、エドムの国境近くにある最南端の町である。

ユダ族は11の地区に分けられていたが、ヤグルはその第1地区であった。ベエル・シェバの東14kmにあり、現在はテル・クールであると言われる。

南ユダ王国のウジヤは異邦人の町であったグル・バアルを平定した。このグル・バアルはヤグルであると言われる。

ヨラム (イスラエル王)

ヨラムは、北イスラエル王国の第9代の王。アハブ王の第2子で、オムリ王朝最後の王である。同時期にユダの王であった同名のヨラムは義理の兄弟である(本項ヨラムの姉妹アタルヤがユダの王ヨラムと結婚)。

火星のアルベド地形の古典的な名称一覧

火星のアルベド地形の古典的な名称一覧では、太陽系の惑星火星上にあり、アルベド地形の古典的な名称の一覧を示す。

現代の火星地形と四辺形の名称にも一部採用されている。

王の道 (パレスチナ)

王の道(おうのみち)はヨルダン川の谷と死海の東を南北に走り、エジプトとメソポタミアを結ぶ幹線道路で、アカバ湾岸のエラテからディボン、ヘシュボン、ラバテ・アンモン、ラモテ・ギルアデ、アシュタロテなどの町をへてダマスコに至る道。旧約聖書にも登場する。

王の道の周辺には、青銅器時代からすでに住居や要塞が発見されているので、この道路は前23世紀から20世紀の間には使用されていたと考えられる。

創世記14章でケドルラオメルと彼にくみした5人の王と戦った時に、王の道を通ってきたと考えられる。モーセを指導者としてエジプトを出たイスラエル民族は、エドムの王とエモリ人の王シホンに彼らの領土を通ることを申請して拒絶された。この時、イスラエル民族はシホンと戦い、その地を占領した。

ソロモン王の治世においては、アカバ湾岸のエツヨン・ゲベル(エラテ)とユダとアラム(シリヤ)を結ぶ重要な交易道路であった。

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