アリウス派

アリウス派は、アレクサンドリア司祭アリウス古典ギリシア語表記でアレイオス[注釈 1]250年頃 - 336年頃)とその追随者の集団を指す。

集団は「アリウス派」と呼ばれ、その主張内容は「アリウス主義」(: Arianismus: Arianism)として知られるが、キリストの神性を父なる神よりも下位に置くキリスト従属説の一つでありアリウスがこの種の主張を始めたわけではないとされる[1][2][3]。これに近い思想を持つ人物としてはサモサタのパウロスが挙げられるが[2]、アリウスの教説は彼の師であった神学者、アンティオキアのルキアノス(サモサタ出身、240以前-312年)から継承されたものと言われる[1][4][3](ただしルキアノスは殉教したことにより列聖され、カトリック教会および正教会において聖人[注釈 2]として崇敬されている[5][6])。

主張内容

アリウス派の主張内容については、「イエス・キリストの神性を否定した」とも[2]、あるいは「イエス・キリストは神的であるとは言おうとしていたが、その神性は神の養子とされたことによる[7]」とも、「イエス・キリストの人性を主張し、三位一体説を退けた」とも[4]言われる。

ただし、「人性の主張」との要約についてはやや正確さを欠くもので、アリウス派と対峙したニカイア派(アタナシオス派)も、イエスの神性と人性の両方を認めている[注釈 3]。また、アリウスはキリストの先在性(マリアによる出産以前から、また万物の創造以前から、キリストが自立存在として存在したこと)を認めている。

さらに、「神性を否定した」については、正統派の立場から見た場合の話で、先述のように「神的であるとは言おうとしていた」と評される事もあり、議論が分かれる。 アリウス自身はキリストを「ロゴスなる神」「独り子なる神」として言及している[8][9]。 このように、アリウスと正統派の違いは当事者以外にとっては論点を捉えにくい微妙な問題である。

そこで彼らの主張を理解するためには、アリウスアタナシオスの主張の違いよりも、まず双方の共通認識に注目する必要がある。彼らに共通する認識で重要なものは神による「無からの(万物の)創造」の教義であった。アリウスもアタナシオスも「無からの創造」の教義をきわめて明確な形で持っていた。「無からの創造」の教義は異教哲学のまったく知らないものであり、しかも、初期キリスト教神学のなかで徐々に漠然とした仕方で現れて来たものであり[注釈 4]、それはきわめて驚くべきことであった。「無からの創造」の教義は彼らにとって、神と被造物の間には完全な断絶があることを意味していたからである。神と世界の間には、両者を媒介するどのような領域も存在しないのである。これ以前の初期のキリスト教徒たちは、神と世界との関係についての理解を定式化する試みに際し、ある中間領域を設定して、これを神のロゴスと同一視していた。ところがもはや、このような中間領域は認められなくなってしまった。アリウス論争において提示されたのは、このような状況のなかで神と世界との関係をいかに考えなおすか、ということだったのである。そして、この再考の結果は劇的な結果をもたらした。主教アレクサンドロスアタナシオスが神のロゴス(キリスト)を厳密な意味で神の領域に帰したのに対し、ルキアノスやアリウスはロゴス(キリスト)を被造物の領域に帰したのである。このような考え方から、キリストを「被造物から神への養子」と考える「養子論的従属説」は生まれた。養子としての神、あるいは神格は被造性を持った神格となる。このことからアリウス主義はキリストの被造性を主張することにその本質があることがわかる。キリストの被造性を主張することには、当然その永遠性を否定することも含まれる。[10]

なお、アリウス派と対峙した、いわゆる正統派となった派を「アタナシオス派」(もしくはラテン語から転写して「アタナシウス派」)と呼ぶ例が高校世界史で一般的であるが、こちらの派もアタナシオスが創始したわけではない。実際、初期にアリウスと対峙し、アリウスを破門したのはアレクサンドリアの主教アレクサンドロスである。そのため、専門書では、いわゆるアタナシオス派はニカイア信条から名をとって「ニカイア派」と呼ばれる[11][12]

アリウス派の主張内容と、ニカイア派(アタナシオス派)の主張を、以下の表で比較する。

アリウス派の主張 ニカイア派(アタナシオス派)の主張
救い主の神性は本性によるのではなく、養子とされたことによる[7] 「子」(子なる神、ロゴス、イエス・キリスト)は完全に永遠に神である[7]
「子」は二番目の、もしくは(「父」より)劣った神である[2]
イエスにおいて受肉したロゴスは被造物であった[7]
ロゴスは全被造物よりも前に、最初に無から創られた被造物である。このロゴスを通じて神は全被造物世界を創ったが、それでもロゴスは被造物である。[2][7]
スローガン「御子が存在しない時があった」[7]
唯一神観を強調する。「父」の位格と「子」の位格は互いにその本質を異にする(ヘテロウーシオス)[1][13] 神は、一つの本質: ουσίαウーシア[注釈 5], : substantia)と、「父なる神」・「ロゴス」(λόγος) である子なる神(イエス・キリスト)・および「聖霊(聖神)[注釈 6]」の三つの位格(: υπόστασιςヒュポスタシス[注釈 7], : persona)において、永遠に存在する[注釈 8]

歴史

アリウス派と呼ばれる(いわゆる正統派からみた場合のいわゆる)異端、もしくは神学的誤謬の登場は、ローマ帝国において迫害が停止した後の最初の大規模な神学論争のきっかけとなった[7]

アリウス派の思想は、第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)で否定されたが[7]、第一全地公会(325年)の後もアリウス派を巡る議論は収まることなく継続した。アリウス派はその後、三つの派に分裂し半アリウス主義と呼ばれる主張も登場したが、それらの中のある者はニカイア派と和解が成立し、ある者は決裂を迎えた[14]

アリウス派は第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)でエウノミオス派(アノモイオス派、非類似派)、プネウマトマコイ派(マケドニオス主義、聖霊神性否定論)、サベリウス派アポリナリオス派などの異説と共に再び否定された[7][15]

西ローマ帝国領、東ローマ帝国領のアリウス派は国法で禁じられ、「正統派」(ニカイア派)へ合流していった[7]。しかし、それ以前にアリウス派の元で学び、ニコメディアのエウセビオスによって主教に叙階されたゴート人のウルフィラスはすでにゴート族の間にキリスト教を布教していた[16]。彼はゴート文字を考案し、聖書をゴート語に翻訳した。そしてその後、彼の弟子たちが広くゲルマン系諸民族に布教して行った[16]。こうしてアリウス派はゲルマン民族の間で、その後も約200年にわたり存続することになる。 東ゴート族は553年まで、西ゴート族は589年のトレド教会会議まで、ヴァンダル族は530年頃まで、ブルグンド族は534年フランク王国に統合されるまで、イタリアのロンゴバルド族は7世紀中ごろまで、それぞれアリウス派であった[15]

アリウス同情派三派

アタナシオスはその生涯に五回の追放刑を受けたが、第二回追放の帰還から第三回追放までの十年間(346-356)はニカイア派にとって平和な期間であった。ところが、ニカイア派の保護者コンスタンス帝が帝位簒奪者マグネンティウス(在位:350-353)によって殺され、さらにアリウス同情派のコンスタンティウス帝(在位:337-361)がマグネンティウスを滅ぼして天下を統一すると万事が逆転してきた。アリウス派の指導者ムルサのウァレンスとコンスタンティウス帝が結び合ってニカイア派の指導者を次々と追放し、アリウス主義が再興された。そしてアタナシオスの第三回追放後の357年頃からアリウス同情派はそれぞれの主張の違いから三派に分かれていった。[17]

アノモイオス派(非類似派)

「父と子は本性において非類似である」と主張する。アリウスが示唆した方向にその教説を発展させたアリウス以上の過激的アリウス主義者の一団である。創始者はアエティオス(-367年)であり、その弟子キュジコスのエウノミオス(在位:360-364)が大成者である。他にムルサのウァレンス、シンギドゥヌムのウルサキウス、コンスタンティノポリス主教のエウドクシオス(在位:360-370)等がいる。[17] w:Anomoeanism

ホモイウシオス派(類似本質派)

「子は父と本質において類似している」と主張する。半アリウス派とも呼ばれる。アタナシオス、ポワティエのヒラリウス、カパドキア教父の働きかけによって、この派の多くは後にニカイア正統派に合流した。この派には、アンキュラのバシレイオス(在位:336-360)、エルサレムのキュリロス(在位:348/9-386)、セバステのエウスタティオス(在位:357-380)、キュジコスのエレウシオス、ラオディケイアのゲオルギオス等がいる。コンスタンティウス帝も一時期、ホモイウシオス派に傾いていた。[17] w:Homoiousian

この派の一部は「聖霊は被造物である」と主張する聖霊神性否定論を主張しプネウマトマコイ派と呼ばれ、後にマケドニオス派とも呼ばれた[17]。「プネウマトマコイ」は「聖霊に対して戦う人々」を意味する。

ホモイオス派(類似派)

本質(ウーシア)という言葉を避け「父と子はあらゆることにおいて類似している」あるいは単に「父と子は類似している」と極めて漠然と主張する。思想的には非類似派に近い。アカキオス(在位:339/40-364/68)がその主唱者であり、アカキオス派とも呼ばれる。この派はホモウシオス派(同質派:ニカイア派)を排撃すると共に、ホモイウシオス派(類似本質派)も排撃する。エルサレムのキュリロス、アンキュラのバシレイオス、セバステのエウスタティオスはアカキオスによって主教職を罷免されている。359年から360年にかけてコンスタンティウス帝を抱きこみ、首都コンスタンティノポリスの地方会議(360年)で「コンスタンティノポリス信条(ホモイオン信条)」を確立し、政治的に自派を勝利に導いた。しかし、ユリアヌス帝討伐に向かうコンスタンティウス帝が病没(361年)するとホモイオス派の政治的基盤は崩れていった。[17]

他の三位一体否定論との違い

三位一体を否定する考えはアリウス主義の他にもある。例えば様態論(様態論的モナルキア主義)等が挙げられる。

ユニテリアン主義は近代になって起きた思想潮流であるが、キリストの神性も否定する[7]点がアリウス派と異なる上に、罪を善である人間性における一過性の不完全さと捉える傾向があるなど、三位一体論の否定に止まらない面をもっており[7]、単純にアリウス主義と同じではない。

注釈

  1. ^ ギリシア語: Άρειοςラテン語: Arius…古典ギリシア語再建音からは「アレイオス」、現代ギリシア語からは「アリオス」、ラテン語からは「アリウス」と転写し得る。
  2. ^ 致命者殉教者
  3. ^ ニカイア信条、およびニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニケア・コンスタンティノポリ信経)の両方に、「人となり」(人柄という意味では無く「人となって」の意)の文言が入っている。後者の該当箇所は以下の通り。
    ...και σαρκωθέντα εκ Πνεύματος άγιου και Μαρίας της Παρθένου και ενανθρωπήσαντα. — Το Σύμβολο της Πίστεως (ΠΙΣΤΕΥΩ)ΙΕΡΑ ΜΗΤΡΟΠΟΛΙΣ ΗΛΕΙΑΣ, Με την επιφύλαξη παντός δκαιώματος
  4. ^ 2世紀の文書『ヘルマスの牧者』の「第一のいましめ」の節には、「何よりもまず、万物を創られ、秩序づけられ万物を無から有へと造られ万物を包容したもうが、御自らは包容されることのない方でありたもう神を、信じなければならない。」という記述がある。(荒井献/編『使徒教父文書』より引用)
  5. ^ (ousia):古典ギリシア語再建音からはウーシア、現代ギリシア語からはウシアもしくはウシーアと転写し得る(現代ギリシア語のアクセントは長音のように転写されることも多いが、厳密には現代ギリシア語には長短の区別は無い)。
  6. ^ 聖霊について、正教会の一員である日本ハリストス正教会は「聖霊」ではなく、「聖神(せいしん)」「神聖神(かみせいしん)」を訳語として採用している
  7. ^ (hypostasis):古典ギリシア語再建音からはヒュポスタシス、現代ギリシア語からはイポスタシスと転写し得る。
  8. ^ 当初の議論は「子」の神性を巡ってのものであったが、聖霊の神性、聖霊も同本質としての神なのかについての議論が起こって来た。第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)から議論が続き、第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)で、三位一体の定式がまとめられた。

参照元

  1. ^ a b c АРИАНСТВО «Православная Энциклопедия»
  2. ^ a b c d e CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Arianism
  3. ^ a b 『初代教会史論考』pp.219-222
  4. ^ a b 『山川 世界史小辞典』p32, 山川出版社; 改訂新版 (2004/01)、ISBN 9784634621107
  5. ^ The Monk Martyr Lucian, Presbyter of Antioch (Commemorated on October 15) (Orthodox Calendar. HOLY TRINITY RUSSIAN ORTHODOX CHURCH, a parish of the Patriarchate of Moscow)
  6. ^ St. Lucian of Antioch - Saints & Angels - Catholic Online
  7. ^ a b c d e f g h i j k l ゴンサレス (2010, p. 19)
  8. ^ Arius and Euzoius to the Emperor Constantine”. 2017年4月29日閲覧。
  9. ^ Thalia”. 2017年4月29日閲覧。
  10. ^ 『キリスト教神秘思想の源流』 pp.135-136。
  11. ^ ゴンサレス (2010, p. 195)
  12. ^ キリスト教大事典 (s48, p. 19-20)
  13. ^ 『初代教会史論考』p.224。
  14. ^ 『初代教会史論考』pp.248-252。
  15. ^ a b 『初代教会史論考』pp.395-396。
  16. ^ a b H・I・マルー『キリスト教史<2>教父時代』pp.127-130
  17. ^ a b c d e 『初代教会史論考』pp.287-316

参考文献

  • キリスト教大事典』、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版
  • フスト・ゴンサレス(著); 鈴木浩(訳) (2010-11), キリスト教神学基本用語集, 教文館, ISBN 9784764240353
  • アンドルー・ラウス(著)、水落健治(訳)『キリスト教神秘思想の源流 プラトンからディオニシオスまで』教文館、1988年1月初版。ISBN 4-7642-7125-7。
  • 『初代教会史論考』 園部不二夫著作集<3>、キリスト新聞社、1980年12月。
  • H・I・マルー(著)『キリスト教史<2> 教父時代』上智大学中世思想研究所 編訳/監修、講談社、1990年。ISBN 4-06-190982-7。

関連項目

4世紀

4世紀(よんせいき)は、西暦301年から西暦400年までの100年間を指す世紀。

アレクサンドリアのアタナシオス

アレクサンドリアのアタナシオス、あるいはアタナシオス(298年 - 373年5月2日, ギリシア語: Αθανάσιος Αλεξανδρείας, ラテン語: Athanasius アタナシウス)は、4世紀のキリスト教の神学者・ギリシア教父・聖職者である。エジプトのアレクサンドリア主教(司教、または大主教)を務めた。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。

大アタナシオスとも呼ばれる。日本ハリストス正教会ではアレクサンドリヤの大主教聖大アファナシイとも呼ばれる。日本のカトリック教会では聖大アタナシオ、聖アタナシオ司教教会博士などと呼ばれる。

アンブロジウス

アンブロジウス(Ambrosius, 340年? - 397年4月4日)は、4世紀のミラノの司教(主教)。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人で記念日は12月7日、ミラノの守護聖人でもある。四大ラテン教父・西方の四大教会博士の一人に数えられる。アウグスティヌスに影響を与えたことでも有名。アンブロシウス、アンブロシイとも表記される。イタリア語名はアンブロージョ (Ambrogio) で、聖人の敬称を付加してサンタンブロージョ (Sant'Ambrogio) と呼ばれる。英語ではAmbrose(アンブローズ)。日本正教会ではメディオランの主教聖アムブロシイと記憶される。

ウァレンス

フラウィウス・ユリウス・ウァレンス(ラテン語: Flavius Iulius Valens, 328年 - 378年8月9日)は、ローマ帝国の皇帝(在位364年 - 378年)。兄ウァレンティニアヌス1世より帝国東部を任されて、共同統治した。ハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)で敗死した。

オドアケル

オドアケル(ラテン語: Odoacer, 433年 - 493年3月15日)は、西ローマ帝国の傭兵隊長を経てローマ帝国のイタリア領主となった人物。オドワカル(Odovacar)あるいはイタリア語でオドアクレ(Odoacre)とも言う。

コンスタンティウス2世

コンスタンティウス2世(Constantius II, 317年8月7日 - 361年11月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:337年 - 361年)。当初は帝国を3分割して東方を担当したが、353年に単独の統治者になった。キリスト教を優遇し、猜疑心の強さから粛清をたびたび行なった。父帝コンスタンティヌス1世と同様、熱心なキリスト教徒であったが、父帝とは反対にアリウス派を支持し、司教アタナシウスを迫害した。

コンスタンティヌス1世

ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語:Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス、270年代前半の2月27日-337年5月22日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年-337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の称号を与えられた。

ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の1人であり、ローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、コンスタンティヌス1世が自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル(現:イスタンブル)は、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした。

テオドシウス1世

テオドシウス1世(フラウィウス・テオドシウス、Flavius Theodosius, 347年1月11日 - 395年1月17日)は、古代ローマ帝国の皇帝(在位:379年 - 395年)。テオドシウス大帝とも呼ばれる。わずか4か月ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を実質的に1人で支配した最後の皇帝となった。

392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、のちに西ローマ帝国においても同じくした。

テオドリック (東ゴート王)

テオドリック(Theodoric, ゴート語:𐌸𐌹𐌿𐌳𐌰𐍂𐌴𐌹𐌺𐍃, 454年 - 526年8月30日)あるいはテオデリック(Theoderic, Theoderik)、テオドリクス(羅: Theodoricus)、 テオドーリコ(伊: Teodorico)は、東ローマ帝国の軍人および政治家。しばしばテオドリック大王と呼ばれる。ローマ帝国の副帝としてローマ帝国の西半分を統治した。また、497年にイタリア王の称号を認められ、現在のイタリア全域と、その北東部周辺に、東ゴート王国を成立させた。

トゥールのマルティヌス

トゥールのマルティヌス(ラテン語:Sanctus Martinus Turonensis、またマルタン、マルチノとも、316年頃 - 397年/400年)は、キリスト教の聖人である。殉教をせずに列聖された初めての人物でヨーロッパ初の聖人でもある。日本のカトリック教会では聖マルチノ(ツール)司教と表記される。

ニカイア信条

ニカイア信条(ニカイアしんじょう、英語: Nicene Creed)はニカイア信経(ニカイアしんきょう)ともいい、325年に作られたキリスト教の基本信条である。後に改訂されてニカイア・コンスタンティノポリス信条ができて、これが東方教会・西方教会で広く使われるようになったので、原ニケア信条(げん二ケアしんじょう)とも呼ばれる。

なお、ニカイア・コンスタンティノポリス信条以外に広く使われているキリスト教基本信条には「使徒信条」もある。

ポワティエのヒラリウス

ポワティエのヒラリウス(ラテン語: Hilarius Pictaviensis、315年頃 - 368年頃)は、帝政ローマ末期のポワティエの司教(主教)。

ラテン教父の一人であり、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会、正教会、非カルケドン派のいずれにおいても聖人とされている。

父なる神と子なる神は本質を同じくするとしてアリウス派への論駁に果たした役割から、「西方のアタナシウス」と呼ばれた。「三位一体について(至聖三者について)」はアリウス派を論駁した傑作として挙げられる。

一度ポワティエ司教(主教)となったヒラリウスであったが、アリウス派を支持していたコンスタンティウス2世によって召集されたベジエ教会会議で追放が決められ、一時はフリギアに流された。しかし361年にポワティエ司教に復位した。以後、367年(368年とも)に死去するまで、多くの著述を行った。

ラヴェンナ

ラヴェンナ(イタリア語: Ravenna)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)。ラヴェンナ県の県都である。

古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、ラテン語ではラウェンナ(Ravenna)と呼ばれる。西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府であった。「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」はユネスコの世界遺産に登録されている。

ラヴェンナの初期キリスト教建築物群

ラヴェンナの初期キリスト教建築群(ラヴェンナのしょきキリストきょうけんちくぐん)は、イタリアのラヴェンナにあるユネスコの世界遺産登録物件名。登録は1996年。5世紀初頭から6世紀末に建設された初期キリスト教の聖堂・礼拝堂を対象とする。

古代末期のキリスト教

古代末期のキリスト教(こだいまっきのキリストきょう)では、「初期キリスト教」の展開以後の3世紀から7世紀にかけての古代末期のキリスト教とローマ帝国、およびゲルマン諸国家との関係について概説する。この時代には、ローマ帝国後期の「3世紀の危機」と軍人皇帝時代をへて、皇帝コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認された。さらにグラティアヌス帝とテオドシウス帝によってキリスト教は国教となった。また、ドナトゥス派やアリウス派などの活動によって東西教会やアフリカ教会が分裂した。ゲルマン系民族が力を強めて476年に西ローマ帝国が滅亡し、7世紀にはイスラムが東ローマ帝国を脅かした。ゲルマン系民族にもキリスト教は浸透していった。800年にはフランク王国のカール大帝がローマ教皇から「ローマ皇帝」称号を戴冠されるに及んで、地中海世界は、東ローマ帝国・フランク王国を中心とした西ヨーロッパ・イスラムの三大勢力によってに三分された。

ここでは、カールの戴冠までを中心に、ビザンツ帝国、イスラムやスラヴ人の台頭までを概説し、7世紀以降の西ヨーロッパ中世におけるキリスト教と国家については、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」で述べる。

東ゴート王国

東ゴート王国

Regnum Italiae

東ゴート王国の領域

東ゴート王国(ひがしゴートおうこく、Ostrogothic Kingdom、497年 - 553年)は、大王テオドリックによって建国された東ゴート族の王国。首都はラヴェンナ。東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの同盟により、西ローマ皇帝の廃止後、イタリアのほぼ全域を支配下においた。

テオドリックの治世において、東ゴート王国は西ローマ帝国の統治機構を再整備し、それまでのローマ法を遵守しつつ新たな国家の構築が進められた。しかし、テオドリックの死後、後継者問題や宗教対立によって国内は混乱しはじめ、ローマ帝国の再統一を進めるユスティニアヌス1世がこれに乗じて東ゴート王国に軍を派遣。東ゴート王国はこれに屈服して滅亡した。

王国としては短命であったが、ローマ帝国末期から続く戦乱の中にあって、諸外国と政治的・軍事的均衡を保ち、つかの間ながらイタリア半島にゴート人とローマ人による共存と平和を実現した。

第1コンスタンティノポリス公会議

第1コンスタンティノポリス公会議(だい1コンスタンティノポリスこうかいぎ)は、381年にコンスタンティノポリス(現トルコ、イスタンブール)で行われた二回目のキリスト教の公会議。(正教会の一員たる日本ハリストス正教会では第二全地公会ともいう。)

第1ニカイア公会議

ニカイア公会議(ニカイアこうかいぎ、ニケア、ニケーアとも)は、325年5月20日から6月19日まで小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現:トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれたキリスト教の歴史で最初の全教会規模の会議(これを公会議という。正教会の一員たる日本正教会の訳語では全地公会であり、ニカイア公会議は第一全地公会と呼ばれる)。

西ゴート王国

西ゴート王国

Regnum Visigothorum

500年頃の西ゴート王国の領域

西ゴート王国(にしゴートおうこく、ラテン語: Regnum Visigothorum、415年 - 711年)は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。ビシゴート王国とも。

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